<?xml version='1.0' encoding='UTF-8'?><?xml-stylesheet href="http://www.blogger.com/styles/atom.css" type="text/css"?><feed xmlns='http://www.w3.org/2005/Atom' xmlns:openSearch='http://a9.com/-/spec/opensearchrss/1.0/' xmlns:georss='http://www.georss.org/georss' xmlns:gd='http://schemas.google.com/g/2005' xmlns:thr='http://purl.org/syndication/thread/1.0'><id>tag:blogger.com,1999:blog-2427495263565810554</id><updated>2012-02-24T17:05:47.891+09:00</updated><category term='エチオピア'/><category term='藤田小四郎'/><category term='世界史'/><category term='石田三成'/><category term='オランダ'/><category term='薩摩'/><category term='薩長'/><category term='貧困'/><category term='ドストエフスキー'/><category term='シャロン'/><category term='公卿'/><category term='福島'/><category term='水戸藩'/><category term='外交'/><category term='飢餓'/><category term='小野妹子'/><category term='西郷隆盛'/><category term='悪貨が良貨を駆逐する'/><category term='貧しさ'/><category term='幕末'/><category term='ラビン'/><category term='冗談'/><category term='徳川家康'/><category 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/&gt;　という、拙速を戒める恐ろしいアネクドートがある。全方位の合意を取り付けるまで首を縦に振らないでおいて、一時代過ぎ、メリットやファクト、社会状況そのものが押し流された後で、おごそかに、粛々と意味の薄い法制が陽の目を見るのである。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　馬鹿の骨頂だ。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　九割九分の合意を得る間に機を逸し、腐臭を放つベスト案に、一円の価値もない。糧を得る機会や、危機というのは、元来が津波のようなものだ。避難場所を腕組み思案し、判断せずに佇んでいたら、たちまち足もとに殺到し、すべてを押し流してゆくモノなのである。サンマの群れが近づいていると耳にしてから、各船毎に網を打つ回数や漁場を打ち合わせる馬鹿もない。それをいい気になって腐るだけ腐らせ、反対勢力も推進勢力も時代の彼方に去ってから&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　「時間が解決する」&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　なんという拙劣か。何という退廃か。絵に描いたような愚か者の言葉として、よくよく心に刻みおくべきである。&lt;br /&gt;　失われた機会は、二度と帰って来ない。時間が解決することとは、変化に対応できないプレーヤーを、自然界から、国際社会から、マーケットから、正しく退場させることである。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　やがて消えゆく側に身を置きながら、得意顔で悟ったようなことを言う者を信用してはならない。&lt;br /&gt;　真の悟りは、期待する行為の不能を知りながら、希望を失わない者に宿る。ガクセーの座禅に一円の価値もない。運命に強いられることなく、また、請い願う心ないままにヒザの痛みを堪えたところで、ワケ知り顔ぶら下げた耳年増が、また一人増えるだけである。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　肝要なのは、全方位の合意を得た利用価値のない腐臭を放つベストではなく、機に臨んで致される、大いなる決断に基づいたベターだ。これを心得ない者に、政治を任せてはならない。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' 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scheme='http://www.blogger.com/atom/ns#' term='政治'/><category scheme='http://www.blogger.com/atom/ns#' term='南北問題'/><title type='text'>豊土の法則（４）</title><content type='html'>北朝鮮のことを、韓国の人は、ときに「コンファグック（共和国）」と呼ぶ。&lt;br /&gt;　つまり、朝鮮民主主義人民「共和国」のことだ。&lt;br /&gt;　この言葉を耳にすると、共和国という普通名詞の持つ意味のあまりの奥深さ広範さに、笑いを禁じえない。冥王星を指さして太陽と言い張る滑稽というべきか。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　実体が「一党独裁の世襲王朝」という、その不思議な「共和国」は、日本、韓国、中国、ロシアの狭間に位置し、そのうちの三国と国境を接する。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　日本と中国は、GDP世界第二位と第三位の大国だ。南にある同民族の韓国は、停戦以降、近代化を急速に押し進め、オリンピックを開催するなど、自由往来を国是とする重商主義の国として、この何十年、豊かさを謳歌してきている。北朝鮮という国の立地が、国として興隆・発展するうえで、どれほど有利な位置にあるか、もはや地図を拡げてみるまでもない。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　まさに、貧しいままでいることの方が、よほど難しい立地と言わなければならないのだ。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　豊かな鉱物資源と海産資源に恵まれ、国民の過半が文字を読み、人口も2500万を数えるというこの国が、度々深刻な飢饉にみまわれ、ときに百万を数える餓死者を出す、世界でも指折りの最貧国なのだ。資源といっても、国民にとってはいっさい関係のない話であり、結局はムダに恵まれている国と言ってもいいのだろう。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　ところが、よくよく見ていくと、ムダどころの騒ぎではない。北朝鮮に住む人々の悲劇は、まさにこの好立地と、資源によってもたらされているのだ。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　元NHKワシントン支局長の日高さんが「ブッシュの後の世界」という著作の中で、アメリカ軍のマイヤーズ大将の発言を要約しながら、北朝鮮の、意外に堅固な立場について述べている。&lt;br /&gt;　アメリカは、イラクと北朝鮮の二正面で作戦を展開する能力を十分持っているが、それでもなお、北朝鮮との戦いを望んでいない。なぜなら北朝鮮での作戦行動は、地上戦なくして集結し得ず、地上戦をともなえば、かならず地域の政治に予測できない連鎖反応を引き起こし、周辺諸国に混乱をもたらすからだ、と。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　各国との関係や交渉事に影響を与えかねないため、公式にはけして認めないが、つまりアメリカは、半島での戦争の影響を、半島内に留めることができないことを、腹の中では、不戦方針の最大の理由としているのだ。逆の言い方をするならば、北朝鮮は、世界でもっとも豊かな「周辺諸国」を「混乱の人質」にすることで、今なお巧妙に生き延びているわけだ。&lt;br /&gt;　これで、一見なんの出口をも提供できていないように思える「瀬戸際外交」、「拉致」、「ミサイル」、「核」といった、北朝鮮が示す「危機カード」にも、じつは存外な妥当性があったことがわかる。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　現在の世界では、マネーがもっとも重要だ。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　マネーの源泉は市場である。日本、中国、アメリカという三国の市場が混乱に巻き込まれる事態を、アメリカがあえて覚悟する可能性は、あまりにも限定されている。それは、世界の半分以上の経済において混乱が起きる、という未曾有の危機を意味するからだ。これは、たとえ韓国の僻地がミサイル攻撃されたとしても、恐らくは動かない。米韓同盟とは、韓国の主権を守ることに主眼があるのではなく、韓国という自由世界、つまり体制を守ることに主眼がある。その延長上に、たまたま主権があるだけだ。日本人がよくやるカン違いはこれだ。アメリカは、体制という経済基盤の重大要素を守るために、主権を防衛するのであって、経済基盤が揺るがないレベルの主権侵害について、同盟の条文をもとに、彼らがいちいち乗り出してくる可能性は少ないと見るべきなのだ。僻地が攻撃されても、経済に大打撃を与えないならば、そして、それ以上の戦線の拡大がないと見込まれるならば、アメリカが、韓国のために、北朝鮮に対して、被害以上の報復行動に出ることはない。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　そして、この法則は、日本についても、おそらく同断だ。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　もっとも日本は、経済のスケールが韓国とは懸絶している。その巨大さの分だけアメリカは、より神経質に反応するかも知れないが、意味としては、それ以上ではない。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　アメリカは、喪失した市場のボリュームに従って、起こす行動の規模を変えるだろう。たとえば、北朝鮮が、日本と中国を直に混乱に陥れてしまったとしたら、アメリカは間違いなく北朝鮮を叩き潰し、為政者の親子を追いつめるだろう。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　そのことは北もよく知っている。&lt;br /&gt;　だから、彼らが心理的な戦争以上のものを仕掛ける可能性はほとんどない。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　重要なのは、アメリカにとってベストな政策が、現状維持だ、ということだ。日本が世界第二の経済大国となり、中国が開放政策で第三の経済を持つに到った（2009年現在）。これは自由貿易を国是にする世界中の国にとって喜ばしいことだ。が、同時に、世界最大の経済大国であるアメリカにとってこそ、もっともメリットが大きいというべきた。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　中東が丸ごと吹き飛ばされたって、東京に原爆を落とされるよりはマシなのだ。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　アメリカが中東で軽々と戦争を起こし、極東で別人のようにおとなしいのは、そこにあるカネの量を比べればわかる。石油は枯渇すればそれまでだが、強靱な経済と市場は、無限の可能性を秘めている。アメリカは、自国であろうが、他国であろうが、豊かな国が増えれば増えるほどトクをする国であり、その点では、日本も中国も、今やまるで同じ利害の上を歩いているのだ。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　そんなまっただ中で、古色蒼然たる周回遅れの行動原理に支配された国が、最貧国として居直り、周囲に凄んでみせている。もし彼らの国が、中東の砂漠の真ん中にあったなら、フセインよりも先に、すでに戦争を通じた敗北と、その後の復興を遂げているはずだ。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　北朝鮮は、その頭上にある王朝が失われた瞬間から、近代への歩みを始め、20年を経ずして、高度に効率化された経済を持つに到るだろう。だが皮肉なことに、世界の成長センターといわれる周辺地域固有の豊かさと、ムダに恵まれた資源が、その豊かさに浴すべき国民の救出を、いつまでも不能に留めている。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　いわばアメリカは、大便を手に持ってニコニコ近づいてくる子供を前に立ちすくむ、スーツ姿のヤクザなのだ。この瞬間におけるアメリカは、他のどの国よりも弱い立場にある、と言わなければならないだろう。いずれにせよ、便を手にして近づいてくる子供に、勝利できる大人は少ない。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　アメリカが、北朝鮮を怖れていない、と考えるのは、大きな間違いなのだ。&lt;br /&gt;　このことは、よくよく記憶されるべきだろう。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　余談だが、アメリカが真に怖れている北朝鮮の攻撃とは、弾道ミサイルではない。&lt;br /&gt;　アメリカや日本の大都市上空の成層圏で、核を爆発させることだ。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　建物や人への被害、あるいは放射能による健康への深刻な影響を与えずに、全域に電磁波の嵐を降らせることによって、あらゆる電子機器を瞬時に、かつ大量に破壊できる、核を利用したもっとも効果的なテロ行為だ。原爆を投下するばあいと異なり、世界の非難を一身に受け、瞬時に粉砕される怖れも軽減できる。効果的に、敵の巨大市場に大打撃を与え、しかも人を殺傷しないために、みずからに対する世界の非難を低く抑えることができるのだ。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　おまけに、ミサイル迎撃システムなど、まるで役に立たない&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　彼らはその気にさえなれば、いつでもアメリカや日本に、考えられないほどの打撃を与えることができるのだ。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　またしても余談が過ぎた。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　つまり豊かさとは、常に貧しさと、表裏をなしているのだ。&lt;br /&gt;　アフリカは、天より与えられた者たちであるがゆえに、いつの日も、戦争と貧困に喘いできたし、インドネシアも、食糧の供給に適した気候風土のために、隣村との殺しあいを、いつまでも続けていられる。フィリピンでは、乞食までもが、さまでの苦労なしに食料を手に入れることができるゆえ、倫理は退廃、人々は刹那的になり、北朝鮮では、周辺諸国の類まれな豊かさを人質に取ることで、みずからの王朝を、さらに次の世代へと継承しようと目論んでいる（2009年現在）。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　さて、こうしてみると、豊かさとは、善行の元手であると同時に、悪徳のタネでもある。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　アメリカ、日本、イギリスといった国々は、長い貧困の時代によって鍛えられてきた文化を利し、長く世界に君臨してはいるものの、いまや天賦の豊かさを享受してきた人々と同様の&lt;br /&gt;「貧困の文化」&lt;br /&gt;　を手に入れつつあるように思えてならない。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　なぜなら、エセリベによって「競争社会」「格差社会」などとウソ八百を並べられながらも、無反省にぶらさがることで、十分に生きて行けてしまう世の中であるという点では、先に挙げた「貧困の文化」を生きる人々と、なんら変わりがないからだ。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　いや、むしろ、天賦の大地に生きる人々は、物乞いもすれば、採集もする。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　結果平等の国・日本で、周囲の働き者が収めた税金や、愚かな親に寄食し、暗い部屋の片隅で腕組みしては、社会を呪う、といった、例えようのない滑稽にまみれた人々こそ、今まさに、日本で、究極の「貧困の文化」を育みつつある一群なのではないか。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　それを思うとき、エセリベ連中が並べる「結果の平等」への飽くなき甘えの論理が、いかにわが国の将来にとって危ういものであるか、だ。われわれは、よくよく事態の本質を押さえおくべきだ。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;知れば知るほど、世界の倒錯に慄然とするであろう。&lt;br /&gt;（了）&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/2427495263565810554-961556458359480013?l=kinnynews.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='replies' type='application/atom+xml' href='http://kinnynews.blogspot.com/feeds/961556458359480013/comments/default' title='コメントの投稿'/><link rel='replies' type='text/html' href='http://kinnynews.blogspot.com/2012/01/blog-post_8144.html#comment-form' title='7 件のコメント'/><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/2427495263565810554/posts/default/961556458359480013'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/2427495263565810554/posts/default/961556458359480013'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://kinnynews.blogspot.com/2012/01/blog-post_8144.html' title='豊土の法則（４）'/><author><name>kinny Halentino</name><uri>http://www.blogger.com/profile/14683346301918691511</uri><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='32' height='25' 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scheme='http://www.blogger.com/atom/ns#' term='南北問題'/><title type='text'>豊土の法則（３）</title><content type='html'>さて、小生がセブ島で貧しいダイビング生活に惑溺しきっていたころのことだ。周辺にはダイビングショップが二軒しかなかったし、滞在先での入浴は、穴の開いた頭上の金ダライに、少女がバケツの水を流し込むという、人力シャワーだった。今もたまに連絡を取り合う友人であるドイツ人のダイビングショップのオーナーは、その民族らしくもなく、ほとんど働かないぐうたら野郎で、いつも地元のフィリピーナたちと、朝まで博打打ちに興じていた。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　そんな博打仲間の中に、現役の共産ゲリラの少佐がいた。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　もちろん現在では考えられないことだが、当時フィリピンの島嶼では、ゲリラの隠れ家（というにはあまりに大っぴらだったが）が至る所にあり、なじみのダイビングショップにも、そうした一人が巣くっていた、というわけだ。不気味なスカーフェイスの彼は、水中スクーターと圧縮酸素の軽装備で、政府軍の軍事拠点まで、10マイル以上を長躯潜水して爆薬をしかけ、帰ってから悠々爆破した、という戦功（？）をいつも自慢のタネにしていた。その武勇伝の頃からの部下だという、地元セブ出身のある若者と、なぜか妙に気が合い、たびたび話込んだのだが、その何度目かの会合でのこと、聞き取りづらいタグリッシュで、彼は、自身の刹那的な人生観を披露したことがある。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;i got fruit in de wood、fish in de sea、notting to worry about.&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　日本風に表現すれば&lt;br /&gt;「山にゃ果物があるだ。海にゃ魚がいるだ。わしらにゃなーんも心配ねえだ」&lt;br /&gt;　といったところか。&lt;br /&gt;　まるでそっくりなセリフを、何かの読み物で読んだことのあった小生は、なんだ、おもしろい発想じゃなくて、現実のことだったのか、と、妙に感心したのを憶えている。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　こんな風のようにはかない連中に殺される方も、たまったものではないが、まさに彼らは、苦労せずとも食べていくことができ、明日の心配すらロクにしていない、というわけなのだ。&lt;br /&gt;　ではなぜゲリラの兵士などやっているのかといえば、金が手にはいるからだといい、その金で何を手に入れるのかといえば、発電機とガソリン、ラジオと麻薬なのだ。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　果たして、そんなちっぽけなことのために、身の危険を顧みず、破壊と殺戮を延々とくり返すなど、考えられることだろうか？&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　不安がない、食べていくのに困らない、といった環境は、節度や生命、人並みな生活といった、良くも悪くも、ある種の人間らしさを形作るであろう要素を、どこまでも軽んじていく性向を、ヒトに植え付けてしまうにちがいない、などと、このとき確信した。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　ぜいたくな暮らしをするためじゃない。&lt;br /&gt;　たかがラジオを聴きながら、麻薬を吸引し、バクチを打つ、といったことのために、他者の生命や、ささやかな財産を軽々踏みにじるのだ。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　安易な豊かさがもたらす病とは、かくもヒトを悲痛な生き物にする。ヒトと呼ぶにはあまりに抵抗のある愚かしさ、かといって、ケモノにはけして備わらない醜悪、そしてこれは、地域の文化と関わりのない、一つの愚かな政権にとっても、まるで同じ事が言えるのだ。単に生き残りの条件が整うだけであれば、これまで述べてきたような、国土の豊かささえ、かならずしも重要ではない。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　たとえば、東アジアだ。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　と、またも話が長くなり過ぎると、諸氏よりおしかりを受けるため、このあたりで不本意ながら一区切りさせていただくことにする。&lt;br /&gt;（続く）&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/2427495263565810554-5841584014330321313?l=kinnynews.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='replies' type='application/atom+xml' href='http://kinnynews.blogspot.com/feeds/5841584014330321313/comments/default' title='コメントの投稿'/><link rel='replies' type='text/html' href='http://kinnynews.blogspot.com/2012/01/blog-post_30.html#comment-form' title='0 件のコメント'/><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/2427495263565810554/posts/default/5841584014330321313'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/2427495263565810554/posts/default/5841584014330321313'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://kinnynews.blogspot.com/2012/01/blog-post_30.html' title='豊土の法則（３）'/><author><name>kinny Halentino</name><uri>http://www.blogger.com/profile/14683346301918691511</uri><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='32' height='25' src='http://1.bp.blogspot.com/-Am7xEkC0nk0/TnrQ5N4sUII/AAAAAAAAAAc/F917vsp1gAY/s220/IMGP0018_ss.JPG'/></author><thr:total>0</thr:total></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-2427495263565810554.post-5060355174388543203</id><published>2012-01-29T17:04:00.003+09:00</published><updated>2012-01-29T17:04:44.400+09:00</updated><category scheme='http://www.blogger.com/atom/ns#' term='貧しさ'/><category scheme='http://www.blogger.com/atom/ns#' term='アフリカ'/><category scheme='http://www.blogger.com/atom/ns#' term='飢餓'/><category scheme='http://www.blogger.com/atom/ns#' term='文明'/><category scheme='http://www.blogger.com/atom/ns#' term='豊かさ'/><category scheme='http://www.blogger.com/atom/ns#' term='現代'/><category scheme='http://www.blogger.com/atom/ns#' term='貧困'/><category scheme='http://www.blogger.com/atom/ns#' term='文化'/><category scheme='http://www.blogger.com/atom/ns#' term='政治'/><category scheme='http://www.blogger.com/atom/ns#' term='南北問題'/><title type='text'>豊土の法則（２）</title><content type='html'>かつてオーストラリアの秀逸なドキュメントに、「黒い収穫」という、とあるインドネシア人資産家の悲劇を描いた作品があった。&lt;br /&gt;　そのインドネシア人は、母国を離れ、遠くオーストラリアで事業に成功したのだが、故郷への思い断ちがたく、貧しかった自分を育ててくれた村人たちの恩に報いようと、共同農園の設立を夢見て凱旋する。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　村では彼の歓迎のために騒然となった。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　懐かしい昔なじみが帰ってきた、というだけではない。村人たちに深く愛されていた少年が、遠く離れた異国で大成功を収め、村を豊かにしようと、事業への参加を呼びかけに戻ったのだ。村人たちに、豊かなの生活を夢見るなという方が無理だった。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　彼はさっそく、コーヒー豆の栽培方法を教え始めた。気候の適したインドネシアでコーヒーを栽培し、輸出して外貨を得るのだ。&lt;br /&gt;　村人たちは相変わらず貧しく、ほとんど自給自足のような生活をなおも続けていた。なんとしても人間らしい生活を故郷の村で実現したい、と彼の夢は膨らんだ。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　が、とある下劣な事情によって、彼の夢は立ち往生する。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　それはあろうことか、隣村との戦争だった。&lt;br /&gt;　当時のインドネシアでは、一村一郷の人々が、武器を手に手に割拠し、たがいに攻伐しあっていた。昼夜を分かたず断続的に行なわれる隣町との戦争によって、コーヒー畑は踏みにじられ、あるいは火を放たれるなどした。村の人々は猛り狂い、コーヒー畑を放り出しては戦争に没頭した。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　彼は人々に説き、あらゆる手段を尽くして、和議と共存共栄の道を開こうとした。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　そんな彼のねばり強い長年の説得が実を結ぼうとしていたある日、ある重要な村人が、隣村の襲撃を受け、拉致された。彼の諫止は暴風の前にゆらめく一筋のロウソクに過ぎなかった。この事件で、彼のコーヒー畑は瞬時に吹き飛ばされ、同時に、故郷を豊かにする彼の夢も粉々に打ち砕かれた。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　この物語は、金と時間と労力のいっさいを灰燼に帰せしめ、あえなく故郷に別れを告げる主人公の涙で幕を閉じる。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　われわれは、肩を落とすばかりではなく、知らなければならない。この悲劇が、じつはアフリカにおける終わりなき貧困との間に、ある共通項を持っている、ということを。つまり、なぜ彼らは、貧困なまま、生き延びてこられたのか。貧困なまま、戦い続けることができたのか。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　それはひとえに、彼らが豊かな大地の上に暮らしていたからである。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　インドネシアは石油を産出し、天然資源に恵まれ、国土は肥沃で、海山の恵みも無尽蔵だ。そのような土地に暮らす人々が、独立し、政府を構えた以上、大国へと発展するのか、といえばそうではなく、軍閥同士の戦闘があり、富の奪い合いがあり、果ては各郷各村同士の終わりなき民族紛争がある。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　彼らは、食えてしまうから、戦争を継続できたのだ。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　資源があるから奪い合いがあり、売るものがあるから武器を購入でき、食べていけるから、いつまでも終わりなき戦いを続けていられるのである。その奇妙な文明の元は何か。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　小生は仮に貧困の文化と名付けることにした。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　貧困の文化は、度重なる飢饉で、人々が協力し合わなければ、生き残ってこられなかった日本やイギリスといった、真に貧困の地域にではなく、むしろ豊かな地域に根付いた。　豊かな土地においては、人々は協力し合わなくとも生きていける。ヘタをすれば、アフリカのように、一家で放浪しても食えてしまったりする。それだけに、協調性のない人々も生き残ることができ、それらの営みが何千年と繰り返されることで、安易にいがみあう「貧困の文化」を形成した。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　才芸のない者が一人で生きていくなど、日本やイギリスでは、まるで不能だった。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　オーガナイズされない個人は滅びるしかなく、結局、そこに住む人々は、何らかの支配と協調の原理を備えた「拡大の文化」を形成せざるを得なかった。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　なぜ「拡大の文化」なのか。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　要は、日本やイギリスでは、周囲と協調し、集団化し、何事も拡大させた方が、生き残りに有利にだったからだ。拡大しようがしまいが、生き残りという観点では、何らの有効性も有しえない豊かな土地とは、文明の成立の根本が違ったわけだ。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　江戸期を通して、日本は何度も深刻な飢饉に見舞われたが、例外こそあるものの、大半が生命を全うできたのは、大名の倉に米が眠っており、眠っていなくとも、大坂の商人から金を借り、米を借りて、急場を食べさせることができたからだ。もちろん在郷の互助性も高ければ、家の観念や、一族の団結も、強かった。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　つまり高度にオーガナイズされることで、貧しい土地に住む国の人々は、生き抜いて来られたのだ。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　この「貧しさ」という致命的課題がもたらした組織化への要求こそが、われわれ自身による長足の近代化の一助となったことは、じつに皮肉だ。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　世界を見渡してみるといい。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　肥沃な土地では、文明こそ栄えたが、組織化された集団としての強みは育まれなかった。ギリシャもイタリアもスペインも中国も、産業革命以降の近代においては、いずれもそのパワーを失墜させた。&lt;br /&gt;　さらに豊かなフィリピンやインドネシアやアフリカでは、人は楽しむことと戦うことにばかり熱心で、かえって終わりなき混乱と貧困を現出させている。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　中国がいま全方位における近代化を遂げようとしているのは、ひとえに「毛沢東」という人名を帯びた災害によって、深刻な飢えと組織化の両方を、戦後、浅いながらも経験しえたからである。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　さて、次回は発展しない方法が存在しないと思われるような地域における奇妙な貧困について書く。&lt;br /&gt;（続く）&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/2427495263565810554-5060355174388543203?l=kinnynews.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='replies' type='application/atom+xml' href='http://kinnynews.blogspot.com/feeds/5060355174388543203/comments/default' title='コメントの投稿'/><link rel='replies' type='text/html' href='http://kinnynews.blogspot.com/2012/01/blog-post_5700.html#comment-form' title='0 件のコメント'/><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/2427495263565810554/posts/default/5060355174388543203'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/2427495263565810554/posts/default/5060355174388543203'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://kinnynews.blogspot.com/2012/01/blog-post_5700.html' title='豊土の法則（２）'/><author><name>kinny Halentino</name><uri>http://www.blogger.com/profile/14683346301918691511</uri><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='32' height='25' src='http://1.bp.blogspot.com/-Am7xEkC0nk0/TnrQ5N4sUII/AAAAAAAAAAc/F917vsp1gAY/s220/IMGP0018_ss.JPG'/></author><thr:total>0</thr:total></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-2427495263565810554.post-5631525687417427049</id><published>2012-01-29T16:47:00.000+09:00</published><updated>2012-01-30T20:02:14.902+09:00</updated><category scheme='http://www.blogger.com/atom/ns#' term='貧しさ'/><category scheme='http://www.blogger.com/atom/ns#' term='アフリカ'/><category scheme='http://www.blogger.com/atom/ns#' term='飢餓'/><category scheme='http://www.blogger.com/atom/ns#' term='文明'/><category scheme='http://www.blogger.com/atom/ns#' term='豊かさ'/><category scheme='http://www.blogger.com/atom/ns#' term='現代'/><category scheme='http://www.blogger.com/atom/ns#' term='貧困'/><category scheme='http://www.blogger.com/atom/ns#' term='文化'/><category scheme='http://www.blogger.com/atom/ns#' term='政治'/><category scheme='http://www.blogger.com/atom/ns#' term='南北問題'/><title type='text'>豊土の法則（１）</title><content type='html'>折に触れ、ある種のことわりとして述べてきた、この「豊かさ」という、なかば地政学上の課題について、少しまとめおきたいと思う。ただ、その前に、読者諸氏におき、すでに抱いておられるはずの疑念について、あらかじめ説明しておこう。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　なぜ「豊かさ」が、「課題」なのか？&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　豊かさを、特段の屈託なく想像したばあい、確かに課題ではなく、単にメリットだ。ところが、自然界を観察しても、人類の歴史を眺めても、明らかにメリットと言い難い、ある種のわだかまりが心のどこかに残る。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;「豊かな土地に住むいのちに限って、なぜか相互に攻伐し、貧しい」&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　いや、これは実際に観察してみないことには、実感が湧きにくい。&lt;br /&gt;　たとえばアフリカである。かの大地は多様で、豊かさにおいても濃淡あるものの、概して太陽が豊富かつ温暖であり、土地は広く平滑で、天然資源に恵まれている。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　もう十年も前だろうか、ほぼ自然のままのアフリカにおいて、職を失いさすらう一家を、とあるテレビ番組でみたことがある。彼らは、かつて自分たちの先祖が住んでいたという土地を目指し、徒歩で旅してゆくのだが、驚くべきことに、彼らは食料の蓄えもロクに持たず、わずかな家財道具を頭の上に載せ、ひたすらに、昼も夜も歩いていくのだ。なぜ彼らは飢えないのか？&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　彼らは、そこいらに自生している木の実や、木の根を掘り出して食べていたのだ&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　信じられるだろうか？&lt;br /&gt;　小生は若いころ、山に籠もるのが好きで、自然から食料を採取しながら生活したことがあるので、感覚として、自然から潤滑に食料を得るのがどれほど大変なことか、それなりに理解しているつもりだ。もちろん植林の進んだ日本の山ではどうにもならないし、わずかに残った原生林でも、一人の人間が場所を選定して、生活すると、周囲の資源がたちまち枯渇するほど、ヒトというものは食べ物を頻繁に必要とする。まして彼らは町に住んでいた一家である。食料を見つけること自体、容易ではない。日本の山のように、ビッシリと植物に覆われるほどに緑が茂っているわけでもない。草木まばらな土っぽい道すがら、食料を採取するていどで、生きていけるはずなど絶対ない、と小生は確信した。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;「これはまた初歩的なデタラメ番組だ」&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　そこで、たまたまユニセフの活動でアフリカに長く滞在した友人のライターに、くだんの番組について話して聞かせ、真偽を確かめようとした。しかし、返ってきた反応は意外だった。日本人が思う以上にアフリカには豊穣の地が多く、場所によっては、そのテレビ番組のような旅は十分可能だし、今なおそうしたレベルのままに、恒常的に生活している人々がたくさんいる、というのだ。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　そして小生が聞いたこともないような木の実やイモ類の名前を並べ、いまなお狩猟・採集で生活している半裸やＴシャツ姿の人々は、ヤラセでもなければ、観光のための伝統文化の保存会でもない、と言った。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　何百人もが、村ごと採集で食べていけるような豊かさなど、小生には容易に信じられない（これはいまだに、小生の中では、ありえないことのように感じられている）。が、少なくとも、たしかに一家が細々と食べていけるくらいの食料は、どうやら確保できたのかも知れなかった。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　さて、ここまで読み進めてくると、奇妙な矛盾に気が付くはずだ。&lt;br /&gt;「アフリカって、飢えてたんじゃなかったっけ？」&lt;br /&gt;　ということだ。食料というだけなら、他にも、世界中に豊穣の地があるだろう。だがアフリカには太陽以外の資源も多い。石油、鉱物資源など、一部のアフリカは、現代における金の卵に、国家の目鼻を付けたようなものだ。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　なぜ、その豊かなアフリカで、貧困と飢えと戦争なのか。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　じつに、その天賦の豊かさこそが、戦争と飢えと貧困の源流にあるのだ。&lt;br /&gt;　つまり彼らの貧困とは、一種の文化なのである。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　アフリカ問題とは、まさに&lt;br /&gt;「天より与えられた者たちにおける固有文化の問題」&lt;br /&gt;　なのである。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　さて、このまま放置しては、説明不足に過ぎ、何がどのように固有文化なのか、さっぱりわからない。そこで、彼ら以上に豊穣な国土を持つインドネシアを、次に見てみよう。&lt;br /&gt;（続く）&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/2427495263565810554-5631525687417427049?l=kinnynews.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='replies' type='application/atom+xml' href='http://kinnynews.blogspot.com/feeds/5631525687417427049/comments/default' title='コメントの投稿'/><link rel='replies' type='text/html' href='http://kinnynews.blogspot.com/2012/01/blog-post_29.html#comment-form' title='3 件のコメント'/><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/2427495263565810554/posts/default/5631525687417427049'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/2427495263565810554/posts/default/5631525687417427049'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://kinnynews.blogspot.com/2012/01/blog-post_29.html' title='豊土の法則（１）'/><author><name>kinny Halentino</name><uri>http://www.blogger.com/profile/14683346301918691511</uri><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='32' height='25' src='http://1.bp.blogspot.com/-Am7xEkC0nk0/TnrQ5N4sUII/AAAAAAAAAAc/F917vsp1gAY/s220/IMGP0018_ss.JPG'/></author><thr:total>3</thr:total></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-2427495263565810554.post-5209916635590354095</id><published>2012-01-07T22:49:00.003+09:00</published><updated>2012-01-07T22:56:45.399+09:00</updated><category scheme='http://www.blogger.com/atom/ns#' term='パレスチナ問題'/><category scheme='http://www.blogger.com/atom/ns#' term='ラビン'/><category scheme='http://www.blogger.com/atom/ns#' term='ホロコースト'/><category scheme='http://www.blogger.com/atom/ns#' term='シャロン'/><category scheme='http://www.blogger.com/atom/ns#' term='中東'/><category scheme='http://www.blogger.com/atom/ns#' term='ファラジスト'/><category scheme='http://www.blogger.com/atom/ns#' term='パレスチナ'/><category scheme='http://www.blogger.com/atom/ns#' term='イスラエル'/><category scheme='http://www.blogger.com/atom/ns#' term='バシール・ジェマイエル'/><category scheme='http://www.blogger.com/atom/ns#' term='政治'/><category scheme='http://www.blogger.com/atom/ns#' term='PLO'/><title type='text'>パレスチナについて</title><content type='html'>かつて中東で、パレスチナ難民の大量虐殺が起こった。出口の見えない現在のパレスチナ問題の直接的かつ決定的な原因とも言われるこの有名な事件の詳細について、これまで語るつもりなど一切なかった。あまりにも有名な悲劇といえ、まず誰もが承知しているだろうと考えたからだ。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　と、思っていたら、ネット上のあちこちに&lt;br /&gt;「イスラエル軍がパレスチナ人を無差別に暴行、殺害した事件」&lt;br /&gt;　といった、事実に反し、かつ怖ろしく歪曲、単純化された情報があふれかえっているのを知り、少しは触れざるを得なくなった。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　この虐殺を行ったのはレバノンの民兵組織であり、その主力はファラジストと呼ばれるレバノン民族主義者の集団である。第二次大戦前、ドイツのナチス党をモデルとしてレバノン独立を目的に創設されたという筋金入りのナショナリストたちだ。彼らに言わせれば、隣国のパレスチナ難民など憐れむどころではなく、むしろ勝手に領内に入り込んでは国内の治安を乱し、シリアやイスラエルの介入を招いてはレバノンの独立を危うくする厄介な異民族武装団体であるに過ぎず、イスラエルに言われなくとも、難民の殲滅はかねてからの宿願であった。おまけに首相候補で将来を嘱望されていた同党の将軍バシール・ジェマイエルは、パレスチナ過激派に暗殺されたばかりだった。英雄だったリーダーをパレスチナ人に奪われたナチズム集団が取る行動は、軍事作戦というより復讐だった。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　後世の傲慢な目で見れば、難民キャンプを包囲したイスラエル軍が、この民族主義集団に武装解除を依頼すれば、何が起こるかは自明であったという他ない。&lt;br /&gt;　結果、子供を含めた女は手当たり次第に強姦され、老人までもが暴行のうえ殺害され、2000人のパレスチナ人武装解除を名目に、3000人とも5000人とも言われる無差別殺人が起きた。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　この時、イスラエル軍が直接武装解除を行っていれば、悲劇の過半は避けられたに違いない。&lt;br /&gt;　なぜなら派遣軍ツァハルはイスラエルの正規軍であり、非武装難民の取り扱いについても最低限の教育を受けていたからだ。ところが、先にも述べたとおり。イスラエルの後の首相であるシャロン将軍は自国の軍を使わなかった。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　もちろん証拠はない。が、目的はひとつであろう。&lt;br /&gt;　正規に武装解除すれば、網からこぼれ落ちた大量のパレスチナ人テロリストが再び野に放たれる。彼らを確実に消去するには、レバノンのカルト右翼に始末させた方がよい。なぜなら、&lt;br /&gt;「自動的に命令外の行為をやってくれるに違いない」&lt;br /&gt;　からだ。命令外の行為とは、すなわち&lt;br /&gt;「テロリストを問答無用で確実に始末してくれるだろう」&lt;br /&gt;　ということだ。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　が、リーダーを殺害され、復讐に燃える民族主義者というのは、シャロンの想像を超えて狂っていた。&lt;br /&gt;　後のパレスチナによる報復は誰もが知る通りだ。悲劇のツケはまずレバノンに侵攻したイスラエル軍の兵士が支払うことになった。復讐に燃えるPLOのゲリラによって戦線は泥沼状態となり、中東のベトナムと呼ばれるまでに事態は深刻化、イスラエル軍兵士の犠牲が増えるにしたがって、国内では反対運動が激化し、ついには数十万人規模の反戦デモが起こるまでに到り、三年後、得るところなくイスラエル軍は撤退せざるを得なくなった。&lt;br /&gt;　その後、和平の機会が何度となく訪れたが、ことごとに双方の民族主義者がこれを暴力的に流産させた。後にシャロン自身が事態の収拾に当たったが、和平提案後には裏切り者として同胞から繰り返し罵声を浴びせられ、脳卒中を発症後は意識不明のまま政権を去ることになった。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　それでもノーベル平和賞を受賞したラビン元首相よりはマシであったろう。&lt;br /&gt;　彼も元民族主義強硬派の軍人であり、みずから招いた事態を収拾すべくパレスチナ和平に踏み切ったが、右翼同胞に暗殺された。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　もはや双方に和平の手がかりはなく、あえていうなら、悲劇のユーゴが、また地上に生まれ落ちてしまったか、ということであろう。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　元をただせば、ホロコーストの受難に血涙した人々が、その迫害者であったはずナチスと理想を同じくした隣国の民族主義者と手を組んで、表向きは武装解除、結果としては無差別殺戮を依頼した、という、この目も当てられない矛盾にこそ後の悲劇の根本がある。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　小生は民族主義を否定するものではない。度合いの多少あるにせよ、それがなくては、まだまだ国が国として生き残ってゆくことができないからだ。&lt;br /&gt;　だが、イスラエルがナチス信奉者と手を組んだのは、見境のない行為だった。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　その重大な始めの一歩は、イスラエルが踏み出したのだ。&lt;br /&gt;　われわれは、このことを記憶に留めおくべきであろう。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/2427495263565810554-5209916635590354095?l=kinnynews.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='replies' type='application/atom+xml' href='http://kinnynews.blogspot.com/feeds/5209916635590354095/comments/default' title='コメントの投稿'/><link rel='replies' type='text/html' href='http://kinnynews.blogspot.com/2012/01/blog-post.html#comment-form' title='4 件のコメント'/><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/2427495263565810554/posts/default/5209916635590354095'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/2427495263565810554/posts/default/5209916635590354095'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://kinnynews.blogspot.com/2012/01/blog-post.html' title='パレスチナについて'/><author><name>kinny Halentino</name><uri>http://www.blogger.com/profile/14683346301918691511</uri><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='32' height='25' src='http://1.bp.blogspot.com/-Am7xEkC0nk0/TnrQ5N4sUII/AAAAAAAAAAc/F917vsp1gAY/s220/IMGP0018_ss.JPG'/></author><thr:total>4</thr:total></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-2427495263565810554.post-6055323811247161685</id><published>2011-12-28T12:03:00.002+09:00</published><updated>2011-12-28T12:03:37.471+09:00</updated><category scheme='http://www.blogger.com/atom/ns#' term='言論'/><category scheme='http://www.blogger.com/atom/ns#' term='悪貨が良貨を駆逐する'/><category scheme='http://www.blogger.com/atom/ns#' term='評論'/><category scheme='http://www.blogger.com/atom/ns#' term='現代'/><category scheme='http://www.blogger.com/atom/ns#' term='インターネット'/><title type='text'>愚論が言論を駆逐する</title><content type='html'>悪貨が良貨を駆逐するの原理は誰もが知るとおりである。&lt;br /&gt;　使用され、流通するのが通貨の使命だが、人々は良貨を貯めこみ、悪貨から使用しようとする。ゆえに、市場から良貨が姿を消すの道理だ。&lt;br /&gt;　さて昨今のネット言論においてはどうか。&lt;br /&gt;　目の前にプロセスと結論が効果的に示された言論と、欠陥だらけの主張の二つが並べられたとしよう。そうした場合、人が両者を比較検討し、より魅力的で、整合のとれた論を求めがちであることは間違いなかろう。だが、インターネットのように、多論共存する「紙面」がなく、単一の空間に単一の主張のみが存在する場合は、総体としての選択が異なってくる。人は整合の取れた自己完結性の高い言論より、一貫性のない主張や訴えに心動かされるのである。それはなぜか。現代人は自己完結性に美を見出さず、これを「押し付け」と捉え、反論できないないままに不快の念を内に宿す一方、不完全で一貫性のない「訴え」に対しては、欠落部分をみずから想像で補い、より自身の願望に近い形に補完するとともに、理論の完成にみずからも参加したことによる知的快感を容易に獲得する。&lt;br /&gt;　先人の示す基本を欠いた社会によって生み出された現代の奇形 &lt;br /&gt;「与えられた子どもたち」&lt;br /&gt;　が示す満たされない自己に対する肯定への願望に多くの原因があるにせよ、やはり双方向性が顕著なインターネット空間においては、言論は愚論に駆逐されるのだ。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/2427495263565810554-6055323811247161685?l=kinnynews.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='replies' type='application/atom+xml' href='http://kinnynews.blogspot.com/feeds/6055323811247161685/comments/default' title='コメントの投稿'/><link rel='replies' type='text/html' href='http://kinnynews.blogspot.com/2011/12/blog-post_28.html#comment-form' title='11 件のコメント'/><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/2427495263565810554/posts/default/6055323811247161685'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/2427495263565810554/posts/default/6055323811247161685'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://kinnynews.blogspot.com/2011/12/blog-post_28.html' title='愚論が言論を駆逐する'/><author><name>kinny Halentino</name><uri>http://www.blogger.com/profile/14683346301918691511</uri><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='32' height='25' src='http://1.bp.blogspot.com/-Am7xEkC0nk0/TnrQ5N4sUII/AAAAAAAAAAc/F917vsp1gAY/s220/IMGP0018_ss.JPG'/></author><thr:total>11</thr:total></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-2427495263565810554.post-9047063483869046172</id><published>2011-12-11T22:39:00.001+09:00</published><updated>2011-12-11T23:00:28.947+09:00</updated><category scheme='http://www.blogger.com/atom/ns#' term='福島'/><category scheme='http://www.blogger.com/atom/ns#' term='酒'/><category scheme='http://www.blogger.com/atom/ns#' term='近況'/><category scheme='http://www.blogger.com/atom/ns#' term='東日本大震災'/><title type='text'>福島は会津の酒</title><content type='html'>某研究所の所長様から今秋のお酒をいただいた。&lt;br /&gt;クチのいやしい小生は、年明けを待たずにひとくち（笑）&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;div class="separator" style="clear: both; text-align: center;"&gt;&lt;a href="http://3.bp.blogspot.com/-cqbvwkVww04/TuSzZjCEFfI/AAAAAAAAAA4/lpz5imo5ogo/s1600/IMGP0752.jpg" imageanchor="1" style="margin-left: 1em; margin-right: 1em;"&gt;&lt;img border="0" height="240" src="http://3.bp.blogspot.com/-cqbvwkVww04/TuSzZjCEFfI/AAAAAAAAAA4/lpz5imo5ogo/s320/IMGP0752.jpg" width="320" /&gt;&lt;/a&gt;&lt;/div&gt;&lt;br /&gt;サカナは藻塩だ。&lt;br /&gt;淡路のがいいってんで、盛るつもりが、湿りっ気が足んなくて、少々広めに乗せて舌で寄せる。&lt;br /&gt;ん～、われながらエッチな図（爆） &lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;div class="separator" style="clear: both; text-align: center;"&gt;&lt;/div&gt;&lt;div class="separator" style="clear: both; text-align: center;"&gt;&lt;a href="http://2.bp.blogspot.com/-2FP3PZ7a3Gw/TuSzaXOWfKI/AAAAAAAAABE/fvZqVYUMZmg/s1600/IMGP0749.jpg" imageanchor="1" style="margin-left: 1em; margin-right: 1em;"&gt;&lt;img border="0" height="320" src="http://2.bp.blogspot.com/-2FP3PZ7a3Gw/TuSzaXOWfKI/AAAAAAAAABE/fvZqVYUMZmg/s320/IMGP0749.jpg" width="240" /&gt;&lt;/a&gt;&lt;/div&gt;&lt;div class="separator" style="clear: both; text-align: center;"&gt;&lt;/div&gt;&lt;div class="separator" style="clear: both; text-align: center;"&gt;&lt;/div&gt;&lt;div class="separator" style="clear: both; text-align: center;"&gt;&lt;br /&gt;&lt;/div&gt;&lt;div class="separator" style="clear: both; text-align: center;"&gt;&lt;/div&gt;&lt;div class="separator" style="clear: both; text-align: left;"&gt;わが一族の故地である福島、それも南会津だってんだから二重に驚き。&lt;/div&gt;&lt;div class="separator" style="clear: both; text-align: left;"&gt;んなこと話したことあったっけ？&lt;/div&gt;&lt;div class="separator" style="clear: both; text-align: left;"&gt;偶然としたら、なんという絶妙だろう．．．&lt;/div&gt;&lt;div class="separator" style="clear: both; text-align: center;"&gt;&lt;/div&gt;&lt;br /&gt;&lt;div class="separator" style="clear: both; text-align: center;"&gt;&lt;a href="http://2.bp.blogspot.com/-uzQLyCR_0vs/TuSzZyLDoiI/AAAAAAAAAA8/rKFUhGp4IXI/s1600/IMGP0748.jpg" imageanchor="1" style="margin-left: 1em; margin-right: 1em;"&gt;&lt;img border="0" height="240" src="http://2.bp.blogspot.com/-uzQLyCR_0vs/TuSzZyLDoiI/AAAAAAAAAA8/rKFUhGp4IXI/s320/IMGP0748.jpg" width="320" /&gt;&lt;/a&gt;&lt;/div&gt;&lt;br /&gt;フルーティな香りに、後から滲んでくる意外な味わい深さ。 &lt;br /&gt;福島の思いのたけがこもったんだ。&lt;br /&gt;そう思うことにした。&lt;br /&gt;所長さまの粋な計らい（？）に感謝！&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/2427495263565810554-9047063483869046172?l=kinnynews.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='replies' type='application/atom+xml' href='http://kinnynews.blogspot.com/feeds/9047063483869046172/comments/default' title='コメントの投稿'/><link rel='replies' type='text/html' href='http://kinnynews.blogspot.com/2011/12/blog-post.html#comment-form' title='2 件のコメント'/><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/2427495263565810554/posts/default/9047063483869046172'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/2427495263565810554/posts/default/9047063483869046172'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://kinnynews.blogspot.com/2011/12/blog-post.html' title='福島は会津の酒'/><author><name>kinny Halentino</name><uri>http://www.blogger.com/profile/14683346301918691511</uri><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='32' height='25' src='http://1.bp.blogspot.com/-Am7xEkC0nk0/TnrQ5N4sUII/AAAAAAAAAAc/F917vsp1gAY/s220/IMGP0018_ss.JPG'/></author><media:thumbnail xmlns:media='http://search.yahoo.com/mrss/' url='http://3.bp.blogspot.com/-cqbvwkVww04/TuSzZjCEFfI/AAAAAAAAAA4/lpz5imo5ogo/s72-c/IMGP0752.jpg' height='72' width='72'/><thr:total>2</thr:total></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-2427495263565810554.post-8511025739253375235</id><published>2011-11-01T15:06:00.000+09:00</published><updated>2011-11-01T15:06:38.947+09:00</updated><category scheme='http://www.blogger.com/atom/ns#' term='日本史'/><category scheme='http://www.blogger.com/atom/ns#' term='戦国'/><category scheme='http://www.blogger.com/atom/ns#' term='空気'/><category scheme='http://www.blogger.com/atom/ns#' term='徳川家康'/><category scheme='http://www.blogger.com/atom/ns#' term='石田三成'/><category scheme='http://www.blogger.com/atom/ns#' term='関ヶ原の戦い'/><title type='text'>日本の原則（10）関ヶ原</title><content type='html'>　関ヶ原の戦いは、まことに日本らしい国内戦争の様相を呈したというべきである。&lt;br /&gt;　あくまでも常識的に考えた場合には、計を滞りなくめぐらせ、よく不意を撃ちえた石田三成は戦略的にも、戦術的にも、家康を凌いでいたというべきであろう。関ヶ原に東軍を圧倒する兵力を集中し、決定的な地の利を得たという点で、いずれも八割方、勝負は着いていた。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　もちろん「常識的に」を付帯したところに、東西のメソッド破りなこの戦いの本質がある。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　つまり石田三成が家康を凌いだ戦略面とは、「段取り八分」の段取り部分を指している。上杉と図って東に家康組下を牽制しつつ、味方はよく衆を形成し、為しうる限り敵の兵力分散を成功させた上で討つ、という流れは、机上論ではあるものの、他の文明圏においては、この位置をまず取り合うほどの定石だ。&lt;br /&gt;　三成は、ほぼなすべきをなしたと言ってよかろう。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　これに対し、家康は残りの二分、すなわち段取り外の達人であった。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　他世界の常識では、この二分は二分に過ぎなかろう。が、わが国においては、この二分が五分にも六分にもなる。家康には、年端も行かぬ頃より戦場を往来してきた者特有のふてぶてしさがあり、いざ必要とあらば、観測も未練も断ち、すべてを放り出すことも厭わなかった。&lt;br /&gt;　戦場には、大小さまざまな想定外の現実や偶然が転がっている。家康は、それらひとつひとつを的確にとらえ、機に乗じきる自信があった。現に関ヶ原においても、みずからに不利な想定外の現実と、有利な偶然に数多く遭遇したが、確実に不利を封じ、有利に乗じていった。また、なるべくバクチを避ける努力はするが、いったん避けられぬと判断するや、その後の行動にいっさいの迷いがなかった。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　一方の三成はその逆を行った。机上で優越した初動こそ完全に家康を封じ込めたかに見えたが、小さな判断ミスを繰り返し、時を追う毎に利の喪失と損失の拡大を重ね、最後まで失地の回復には到らなかった。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　他方、戦争とは、もっともその民族性が色濃く表れる現場であろう。&lt;br /&gt;　人間通であった家康は、日本人という集団の特性を知り抜いていたのである。家康はいわば、人々の思惑絡み合う「戦争」という相場の達人だったのだ。&lt;br /&gt;　その点、三成は日本人がわからない男だった。誰もが嫉妬と不安の狭間で揺れ動き、周囲の空気を読んではうまく立ち回ろうと懸命だったが、三成はそんな彼らを理解し、憐れむことも、なだめることも、利用することもしなかった。どころか、太閤の遺訓を守らぬ由で手厳しく人々の不義を追求し、不足を言い募り、糾弾した。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　三成は、みずからに有利でさえあれば、諸将は従うとみたのだ。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　一方で共感を得ることを軽視した。たしかに敗れればいつでも価値が根こそぎ破壊され尽くす大陸では、三成の思惑通りであったろう。全滅を賭して戦うか、支配を甘んじて受けるか、二つに一つという過酷さの中で生き抜いてきた人々は、周囲の空気などに一円の価値もないということを知り尽くしている。&lt;br /&gt;　だが日本では、空気が読めない、周囲の共感が得られない存在は滅びるしかなく、のさばるようなら、周囲は何かと足を引っ張ってその胆を試そうとし、なおも動じなければ、確たる理由も必然性もなく敵対、時が戦国なら、これに挑戦して除こうとするのである。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　たとえば織田信長は、日本人離れした戦略眼の持ち主だったが、空気が読めなかった。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　臣下の共感を得られない主人は、いつか滅ぶ、というのが日本式主従なのである。かくして信長は、明智光秀という「村人」に滅ぼされた。&lt;br /&gt;　日本では中華帝国流の、あるいはローマ流の皇帝独裁が基本的に成立しづらい。そんな国の天下分け目では、まさに「空気」が、基礎的な兵力差をひっくり返したのである。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/2427495263565810554-8511025739253375235?l=kinnynews.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='replies' type='application/atom+xml' href='http://kinnynews.blogspot.com/feeds/8511025739253375235/comments/default' title='コメントの投稿'/><link rel='replies' type='text/html' href='http://kinnynews.blogspot.com/2011/11/10.html#comment-form' title='3 件のコメント'/><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/2427495263565810554/posts/default/8511025739253375235'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/2427495263565810554/posts/default/8511025739253375235'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://kinnynews.blogspot.com/2011/11/10.html' title='日本の原則（10）関ヶ原'/><author><name>kinny Halentino</name><uri>http://www.blogger.com/profile/14683346301918691511</uri><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='32' height='25' src='http://1.bp.blogspot.com/-Am7xEkC0nk0/TnrQ5N4sUII/AAAAAAAAAAc/F917vsp1gAY/s220/IMGP0018_ss.JPG'/></author><thr:total>3</thr:total></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-2427495263565810554.post-9109509001213866312</id><published>2011-10-28T19:02:00.001+09:00</published><updated>2011-10-28T19:02:56.601+09:00</updated><category scheme='http://www.blogger.com/atom/ns#' term='木戸孝允'/><category scheme='http://www.blogger.com/atom/ns#' term='幕末'/><category scheme='http://www.blogger.com/atom/ns#' term='武士道'/><category scheme='http://www.blogger.com/atom/ns#' term='武士'/><category scheme='http://www.blogger.com/atom/ns#' term='桂小五郎'/><category scheme='http://www.blogger.com/atom/ns#' term='志士'/><category scheme='http://www.blogger.com/atom/ns#' term='藤田小四郎'/><category scheme='http://www.blogger.com/atom/ns#' term='水戸藩'/><category scheme='http://www.blogger.com/atom/ns#' term='明治維新'/><category scheme='http://www.blogger.com/atom/ns#' term='西郷隆盛'/><category scheme='http://www.blogger.com/atom/ns#' term='日本'/><title type='text'>日本の原則（９）水戸の心</title><content type='html'>　幕末史をペリー来航のあたりまでさかのぼるつもりが、幾年も行き過ぎてしまって、途方に暮れることがしばしばある。&lt;br /&gt;　幕末はペリー来航によって始まったのではない。かの吉田松陰が、友人で、同じく後に討幕派の巨魁となる宮部鼎蔵らと諸国を旅しつつ泣社をなしたのは、ペリー来航よりも以前の話である。幕末の先駆となった水戸烈公の幕政弾劾が、大塩による腐敗官僚の摘発以降、激しさを倍加させたために、それまでの経過が、つい見過ごされがちなのだが、そもそも幕政改革云々以前に、水戸藩そのものによる藩政の大改革があったことを、後世は忘れるべきではない。&lt;br /&gt;　すでに知行合一は、市井にある一部の教養人たちにとって、常識を超え、ほとんど強迫観念にまでなっていた。おまけに徳川御三家の内から、知行合一の大合唱が、白昼堂々と沸き起こったのだ。当時の世論が、この動きをどのように見たか、想像に難くない。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　御一新のこころの源流は、水戸の藩政改革にあった。&lt;br /&gt;　大坂の乱に呼応して発動されるはずであった烈公のクーデター計画は、密使の不慮の頓死という、いわば運命的な事件によって、ペリー来航まで持ち越されてしまった。だが、どの時点で燃え広がったにせよ、日本という薪には、すでに火が熾きていた。水戸に倣い、同じく藩政改革に取り組んだ雄藩の士は、炎上がいつであれ、烈公に心を寄せたであろうし、全国に散らばっていた有名無名の志士たちは、水戸と行動を共にしたであろう。&lt;br /&gt;　現実の幕末においても、雄藩毎の事情によって、国論をリードする母体が目まぐるしく入れ替わったが、その時々の改革派による議論の基調は、何ら変わるところはなかった。なぜなら、ほとんどの志士たちは、たとえ藩を脱してでも、みずから信じた道に殉じるべきだ、と覚悟を決めていたからである。&lt;br /&gt;　これは特定の事件や、特定個人の影響によったものではない。&lt;br /&gt;　吉田松陰は後に、友人との旅程の約を果たすためだけに脱藩した。藩の許可を待てば済む話であったにも関わらず、である。&lt;br /&gt;　知行合一の「士」の世界では、口先で何を主張していてもしかたがなく、この場合で言えば、脱藩することで、友情の真を見せなければならなかった。そのように行動すべきであるかどうかは、議論の分かれるところであったに違いない。が、少なくともそのような気分に、当時の志士の多くが共感もしくは理解でき、突き動かされたのは確かなことだ。こうした一種の異常人たちが、幕末の日本には何万人もいたのだ。&lt;br /&gt;　幕末は、来ないワケがなかった。&lt;br /&gt;　ペリーの有無に関わらず、幕末は必然だったのである。&lt;br /&gt;　たとえば、桜田門外の変によって後世に著名な薩水血盟の要諦とは、早い話が、水戸の討死宣言だ。&lt;br /&gt;「まず、われらが死ぬ。薩摩は挙兵、都を押さえて国論を握るべし」&lt;br /&gt;　その言葉どおりに彼らはわずか十数名をもって井伊を要撃し、路上に斃れた。とうぜん薩摩からは、精忠組の面々が都に上って旗揚げを画策しなければならない。&lt;br /&gt;　が、斉彬死後の薩摩藩では、因循の藩内要人が幕府を怖れ、血迷ったあげく、水戸の金子らを事実上捕吏に引き渡したばかりか、水戸藩になんらの通牒もなく、精忠組の突出を禁止、あろうことか、桜田門外で井伊の首級をあげた薩摩藩士・有村次左衛門の兄、雄助を、国に連れ戻した後、殺してしまった。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　精忠組の面々、主筋の命とはいえ、不甲斐なさ、義心の拙さを責められても仕方がない。&lt;br /&gt;　現に、薩摩はそれ以後、&lt;br /&gt;「薩摩は内部の都合で、恥ずかしげもなく約を違える」&lt;br /&gt;　などと誹られることになる。&lt;br /&gt;　後の話になるが、政治復帰後の西郷が、久光の上京を諫止し、藩の閣僚の面々を痛罵したのは、世上に、西郷の久光嫌いのあらわれ、などと言われるが、実際は、藩による過去の亡義道を恥じるあまりの憤激であったに違いない。水戸の屍に、後ろ足で砂をかけるようなマネを平気の平左でやっておきながら、臆面もなく都に上り参じよう、などという自藩の上層部に、言いようのない憎悪と、恥辱を覚えたのだ。ただ、そのことを指摘するのは、主筋に対し、あまりにも酷烈に過ぎるため、やむなく旧主を引き合いに出し、上京の不可を説いたのである。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　西郷に本心を語らせるとしたなら、間違いなくこうだったろう。&lt;br /&gt;「われらが優柔不断、もとい都合で、約を違え水戸の衆の死を無駄にしておきながら、今ごろどのツラ下げて都大路を歩けるとお思いか。あなたがたは、どこまで恥を知らないのか。都の貴顕がわれら薩摩をどう見ることか。諸国の草奔が、われらをどう思うことか。なぜ、このていどのことが、あなたがたにはわからないのか」&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　西郷は、同志であった大久保や小松に対しても、本当は心底、情けなかったに違いない。だが、なにより自身が、水戸の一挙以前に、井伊の攻勢を凌ぎ切れなかったこと、旧主の頃より縁の深かった月照ら無二の協力者を死なせながら、みずからは死に損なってしまったことなどについて、あまりに自責の念が強過ぎたため、思うままを相手にぶつけることを、いさぎよしとしなかったのであろう。&lt;br /&gt;　精忠組の有馬新七なども、時を経るにしたがい、やはり自責の念に耐えられなくなった。寺田屋での最後は、自裁だったというべきだ。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;「知行合一」の卸元である水戸は、その後も全国の志士たちの魂を揺さぶり続けた。水戸の有志を車軸とする各藩との同盟が次から次へと生まれては消え、ひとつ消える毎に血が流れ、その度ごとに、時代は奔流の度を強めてさらに沸き返る。幕末ギリギリの段階に到るまで、権力盛衰の裏で志士の議論を左右し、慶喜が将軍職を継いだ後もなお、水戸は、公武をめぐる政争に強い影響力を及ぼす隠然たる勢力であることを止めていなかった。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　と、ある事件によって、みずからの身命や栄華を願うこころから隔絶され、もっとも壮烈で、もっともひたむきだった水戸の志士たちが、よりにもよって、烈公の子である慶喜の施政下、ほとんど残らず姿を消してしまう。&lt;br /&gt;　もちろん、彼らの無謀さや、はるかに先立つ烈公の死によって拡大した水戸藩内部の政治混乱に因を求めることはできる。が、世上、傑物として恐れられていたところの慶喜による生涯最大の過失が、天狗党始末における不明にあった、と、やはり小生としては、断じざるをえないのだ。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　天狗党始末については、書かない。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　ともあれ水長同盟の一方の領袖であり、東西挙兵が流れた後も、東湖の実子である筑波山の藤田小四郎らと盟約、資金を用立てたりしていた桂小五郎は、事件を経、すっかり人変わりしてしまった。桂の同志であった大村益次郎や中岡慎太郎が、倒幕の最右翼として武断的な立場を鮮明にし、存在感を増していくのも、これ以降のことである。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　彼らだけではない。&lt;br /&gt;　この事件を境に、ほとんどの志士という志士が、幕府を倒すべき存在として明快に意識するようになった。そのことを思うとき、空中を飛翔する鳥の目が、地上に伏す、とある激しい一点を見つめざるをえない。水戸の志士たちは、ただひたすらに、ぬかるみの埋め草になることによって、御親政最大の知られざる功労者となった、と。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　やがて幕府は倒れ、勤王派による新政府が誕生した。&lt;br /&gt;　長州や土佐の指導者たちが維新後、幕末の動乱であまりに多くの同志を失った旨嘆いた話というは、わりあい広く知られている。人が死にすぎ、人材が払拭してしまったのだ。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　だが水戸は、その比ではない。ほとんど誰も生き残ってはいなかった。&lt;br /&gt;　新政府としては、彼らの功に報いたくとも、報いようがない。数え切れない霊が、維新後贈位されたが、それだけではどうにも足らず、やむなく元同志である生き残りの元勲たちは、まだ若く、縁も薄かった子弟をムリにも官に引き上げようとした。が、むしろ彼らの方から、自分たちに何の功もない、との由をもって、固辞した例が多かったという。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　といって、福沢のように不平不満を垂れ流すでもない。むしろ水戸の士の多くは、下っ端の警察官等になり、御親政を素直に祝いつつ、身を挺して働いたといわれる。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　小生には、現代においてすっかり忘れ去られてしまった「水戸」が代表するところの精神、こころの在り方こそが、明治のひたむきさ、悲しいまでの明るさを支えていたように思えてならない。はるか後世、桂の口癖はあまりに有名である。&lt;br /&gt;「地下の同志に合わせる顔がない」&lt;br /&gt;　水戸のこころは、桂や西郷の主であり、親友でもあった明治帝に引き継がれ、はるかに御親政下の世を照らし出した。かの日本銀行券にあって今日の世を睥睨する誰かのような、自立だ、自尊だ、という上滑りの曲言で、あの貧しくも、一様にけなげだった明治民衆の奮闘を語り得るだろうか？&lt;br /&gt;　小生には何もかもが、およそ信じるに値しないのだ。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;「かねてより　おもいそめにし　まごころを&lt;br /&gt;きょうたいくんに　つげてうれしき」&lt;br /&gt;　藤田小四郎の辞世である。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' 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/&gt;　要は勝だけではない、そもそも政戦の実力者や材幹は、官軍より、むしろ幕府にこそ豊富に存在したのだ。幕府が敗れたのは、ひとえに機に臨んで適所に適材を用いなかった、という点に尽きる。後の廃藩置県をみても明らかなように、初めから薩長の士の多くは志士らしく「日本」を念頭においていたが、勝もその点では、完全なる志士といえた。勝が神戸に建設した海軍には諸方の浪人や志士が名を連ね、勝の手足となったが、勝が幕府の保守派の画策によって軍艦奉行を罷免されるや、諸方に散開し、皮肉なことにそれらの多くが討幕運動に走る。幕府方の「志士」である勝が、終始先頭に立って幕府の戦略に効果的な影響力を及ぼしていれば、ほぼ倒幕は不可能であったろう。それほどに勝という男は事を為すにあたって大胆不敵、その知略は敵しうる者が見当たらないほどであった。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　が、この「もし」は、設定そのものが不能といえるかも知れない。そもそも、勝が縦横に影響力を及ぼしうる幕府であれば、倒されるべき根源的イデェも最初から存在しないのだ。いざ御一新に臨むや、勤王ではなく「言路洞開」こそがもっとも声高に、かつ深刻に叫ばれるようになったのは他でもない。意思の欠如、もしくは存在としての不能を、要路から追放し、才ある者に、より広範に活躍の場を与えていくことで、欧米列強の侵略に抗しよう、とするのが討幕派のゴールだったからである。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　では後世に歴史的存在となる&lt;br /&gt;「討幕派」&lt;br /&gt;とは何だったのか。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　討幕派とは、要するに往時の志士たちの意思の総和であった。&lt;br /&gt;　志士にとっては、薩長か幕府かなど、どうでもよかった。その証拠に、水戸に烈公と東湖あれば水戸徳川の門を叩き、過激公卿が浪士に門戸を開けば宮城に草鞋を脱ぎ、幕府が勝に道を与えて海軍を開けば神戸に遊び、薩長が回天を唱えればこれに馳せ参じた。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　政治の本質とは切ることだ、とは、当欄最大の主張だが、もう一つの重要な主張、すなわち&lt;br /&gt;「政治の本質とは冗談である」&lt;br /&gt;を、思い出していただきたい。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　御一新最大の冗談こそ勤王であり、攘夷であり、そのための倒幕であった。主たる仕掛け人たちの念頭にあったのは、日本に意思を取り戻すことであって、勢力を糾合して不能を除くことに適しているなら、そのお題目は、おもしろければおもしろいほどよかった。&lt;br /&gt;　つまり諸国から志あるものを募って海防にあてる勝の戦略は、これ以上ないほどの正答であり、江戸幕府の世を継続しうるもっとも妥当な方策であった。勝という幕臣らしからぬ男は、事の本質を底の底まで見切っていたのだ。すなわち、ボトルネックを解消し、共同体化した幕府の本質を改め、意思と志に基づいて行動する者に道を与えれば、倒幕も、そのエネルギーの本質ごと立ち消える、ということを。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　と、やはりふり出しにもどる。&lt;br /&gt;　そのような勝を活躍させ続ける幕府なら滅んでいない、ということだ。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;「正答」をよく擁しうる幕府ならば、最初から倒されるべきとは目されない。国の危機に臨んで為すところなく、相も変わらず出頭する者あればすなわちこれを嫌悪し除こうとする体質から抜けきれないがゆえに、世によって、集団ごと排除するに如かず、という結論が導かれたわけだ。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　勝は軍艦奉行を罷免された後、江戸幕府の滅亡が決定的になるまで、ついに復権することがなかった。机上の空論と屁理屈に明け暮れる陰湿なクイズチャンピオンの不能ドングリ集団が、最後まで救世主に道を与えなかったことにより、当のドングリ集団ごと、江戸の世は終わりを告げる。江戸の役人集団が、真に国を思わず、不能の共同体であることからも脱しようとせず、いたずらに材幹に嫉妬し、どこまでも機能することを拒否し続けたことが招いた、いわば避けようのない結論だった。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　勝は後に、自分を冷遇することでみずから滅んだ幕府について&lt;br /&gt;「戦乱の世に苦しむ後世の民のことを思いやって、ご神君（家康）が、危機に陥るなり、すぐに瓦解するよう幕府の屋台骨を設計されたのだ」&lt;br /&gt;といった意味のことのみ遺言した。&lt;br /&gt;　なるほど、たしかにそうした側面があるにはあったが、それが事の本質でないことくらい、干された当の勝には痛いほどわかっている。&lt;br /&gt;　勝はその後、常人能わざる大仕事を二度にわたってやってのける。が、その内容は、幕長戦争の後始末と、鳥羽伏見後に発された東征軍との和平交渉だった。いずれも慶喜の意に応じる形での敗戦処理だった。&lt;br /&gt;　志士である勝にとり、幕府は主であるとともに、事敗れた以上は志の障害だった。俄然、あたり構わずみずからの不遇を呪い、口汚く幕閣の因循姑息を罵った。だが運命は皮肉にも、この渾身の志士に、主の滅亡が濃厚になってから、御家の命乞いを命じた。勝はわが身の悲痛と滑稽を嘆いたに違いない。&lt;br /&gt;　が、慶喜直々に敗戦処理を託された以上、否やはなかった。勝は志士である前に、濃厚に江戸のさむらいの子であった。慶喜は、時勢と、身から出たサビによって敗れ、打ちのめされていた。志の夭折を迎え、寄る辺をなくして漂流する主が、ひとえに臣下たる自分を目指し来て、後を頼む、といい、涙を流した。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　さむらいなど単純である。この一瞬のために勝は、万難を排し、骨に矢が突き立ってもこの主を守り通す、と決意した。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　その後の勝は、悪鬼羅刹と化したかのようだった。和平の障害となる好戦家や「忠義の臣」を詐略にかけ、江戸から追い払う一方、あらゆるルートを通じて御家の存続と慶喜の助命嘆願を図った。江戸が戦場となり、市民の罹災や死傷が増えれば、時の勢いによって、すべての咎が徳川家と慶喜に振り向けられるのは自明である。勝は古参の志士であった山岡鉄舟をして、初見のうちに死士となし、東征軍の幕営に赴かせた。官軍の部隊は目の前に迫っており、もはや一刻の猶予もない。勝はつとめて冷静だったが、発する言葉は、一言一句が血ぶくれしたように足掻いていた。年少の頃から乱暴者で知られる大兵の剣豪だった山岡は、官軍との戦争を事前に覚悟していたが、勝のひとすじのひたむきさに接するや、これに打たれてにわかに翻意した。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　いや、正しくは翻ったのではない。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　勝の胸中に鎮座する、死を覚悟したさむらいが、同種のさむらいを宿す山岡に語りかけ、理も非もなく頓悟させたのだ。と、次は山岡の中のさむらいが目を醒まし、討伐の腹を固めていた西郷を翻意させる。&lt;br /&gt;　これが後の江戸無血開城につながった。&lt;br /&gt;　事態が急迫し、極まって、切所を迎えたときこそ、人の真価が問われる。江戸市民の生命を救い、徳川家を存続させ、慶喜の命を守りきった勝は、託された命題と罪業のすべてを背負い、成果に換えることで、同時にさむらいの道を全うした。&lt;br /&gt;　勝の当たるべからざる剛腹は長州の大村を彷彿とさせ、際だった政治力は宮内の岩倉を想起させる。&lt;br /&gt;　が、幕府は敗北せる集団だった。&lt;br /&gt;　勝と同じく性格に圭角の多い大村は、天才らしく、大いなる嫌われ者だったが、薩長官軍にあっては重用され続けたし、陰険で影の部分ばかり目立つ岩倉は、その器量を実力派の志士たちから買われ続けた。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　薩長勢力は、幕府にくらべれば、まだしも国家として機能する集団であった。なるほど種々の行政機能については無知だったが、志士という、国家にとってもっとも重要な「みずみずしい意思」が豊富に存在した。志に拠って立つ彼らは、好悪の情や個人的な見方で国の材幹を判断しなかった。即ち、初めから勝つべくして勝ったのだ。&lt;br /&gt;　一方の幕府は、人材も行政機能も備えていたが、国家としてこれを機能させるに足る意思と感受性に欠けていた。勝の不幸は、幕臣の子として生を受け、徳川家との濃厚な接触の中に育まれ、既得権益者の群れの利害に扼されながら役目を負うたことであろう。&lt;br /&gt;　朱子学と、度重なる倹約令によって、減点主義の事なかれ指向が幕府の骨髄に染みわたっていた。長年の統治で官僚化した江戸の役人は、諸方に言い訳のできる、障りない人事と多頭采配、大勢の好悪の情によって人を評価する判断回避主義に狎れきっていた。早い話が、幕府は事なかれな統治に最適化するうち、頭の先からつま先まで、もれなく共同体化しきっていたのだ。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　満身が共同体化した集団は墜落するしかない。&lt;br /&gt;　かくして勝の才に嫉妬し、嫌うあまりに排除した幕府は、勝のような材幹を好んで用いる新政府に敗れ去ったのである。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/2427495263565810554-3162950331140372313?l=kinnynews.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='replies' type='application/atom+xml' href='http://kinnynews.blogspot.com/feeds/3162950331140372313/comments/default' title='コメントの投稿'/><link rel='replies' type='text/html' href='http://kinnynews.blogspot.com/2011/10/blog-post_18.html#comment-form' title='8 件のコメント'/><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/2427495263565810554/posts/default/3162950331140372313'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/2427495263565810554/posts/default/3162950331140372313'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://kinnynews.blogspot.com/2011/10/blog-post_18.html' title='日本の原則（８）勝海舟'/><author><name>kinny Halentino</name><uri>http://www.blogger.com/profile/14683346301918691511</uri><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='32' height='25' src='http://1.bp.blogspot.com/-Am7xEkC0nk0/TnrQ5N4sUII/AAAAAAAAAAc/F917vsp1gAY/s220/IMGP0018_ss.JPG'/></author><thr:total>8</thr:total></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-2427495263565810554.post-6295208071477955916</id><published>2011-10-14T11:42:00.000+09:00</published><updated>2011-10-14T11:42:37.699+09:00</updated><category scheme='http://www.blogger.com/atom/ns#' term='日本史'/><category scheme='http://www.blogger.com/atom/ns#' term='政治家'/><category scheme='http://www.blogger.com/atom/ns#' term='革命'/><category scheme='http://www.blogger.com/atom/ns#' term='公家'/><category scheme='http://www.blogger.com/atom/ns#' term='和宮降嫁'/><category scheme='http://www.blogger.com/atom/ns#' term='攘夷'/><category scheme='http://www.blogger.com/atom/ns#' term='公卿'/><category scheme='http://www.blogger.com/atom/ns#' term='岩倉具視'/><category scheme='http://www.blogger.com/atom/ns#' term='幕末'/><category scheme='http://www.blogger.com/atom/ns#' term='日本の偉人'/><category scheme='http://www.blogger.com/atom/ns#' term='明治維新'/><category scheme='http://www.blogger.com/atom/ns#' term='政治'/><category scheme='http://www.blogger.com/atom/ns#' term='日本'/><title type='text'>日本の原則（７）岩倉具視</title><content type='html'>　和宮の降嫁は、かねてより研究者の間で物議を醸してきた事件だ。が、物議の本体とは、幕末史上における降嫁の位置づけ、ということであり、降嫁そのものについては、そもそも朝幕の結びつきを強める行為であるため、これを推進する旨で天皇に助言した当時の侍従・岩倉具視の動きについても、佐幕指向のあらわれであるとシンプルに解釈する向きがほとんどである。&lt;br /&gt;　もちろん、単純にそういうことなのかも知れない。が、かならずしもそうとは言い切れまい、と思うがゆえに、これを書いている。&lt;br /&gt;　ともあれ、状況証拠から推測することしかできない点だけは、あらかじめ言い置くことにする。&lt;br /&gt;　岩倉は確かに降嫁を支持する立場を鮮明にしたかのように見えるが、彼がどさくさまぎれに付帯させた条件というのが尋常一様のものではない。その項目中に、過日、天皇を激怒させた幕府の独断による諸外国との条約締結について、例外なく期限を設けて白紙撤回させる、との内容がある。一国の政府としてクリアするには、まさしく戦慄すべき条件と言ってよいため、どうにもこうにも「いわゆる佐幕派」がひねり出せるような代物ではない、と小生などは思うのである。つまり岩倉としては当初、自身を幕府に都合のよい振る舞いをする公卿であると信じさせ、降嫁やむなしの世論を宮内に醸成、生前の井伊をして本格的な降嫁運動に踏み切らせつつ、これが桜田門外に斃れた後は、すなわち回天の時機到来と断じ、あえて事態を紛糾させ、ハシゴを外した後で、とても呑めない条件を付加した、ということではなかったか。&lt;br /&gt;　幕府にしてみれば後付けの恰好で押し付けられた言いがかりのようなものであったろう。後世から見たばあい、岩倉としても諸方からの異論あって仕方なく、といった体になっているのが、なにより不審だ。そもそも岩倉という男、他者からの「突き上げ」ごときで汲々のあげく調整に奔走するようなタイプの男かどうか。むしろ味方ヅラぶら下げて幕府に意を含んだごとくに見せかけ、後に一転、条件の不履行をタネに確実に幕府を追い詰めてゆこうとしたのではなかったか。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　条約締結の一件、幕府にしてみれば、ほとんど忘れたいような過去であったに違いない。&lt;br /&gt;　天皇が水戸藩に向けて発した攘夷輔導の怒りの勅命は、烈公をかねてより憎悪する幕府方にとって、もっとも看過し難い行為であった。大老の井伊直弼は、これを幕府の権威を貶めるための陰謀と断定、悪名高い安政の大獄へと打って出た。水戸、越前を中心に、上は過激公卿や大名から、下は草奔の志士に到るまでを徹底的に弾圧、当初こそ幕権にわかに高揚したかに見えた。が、やがて洩れ伝わる弾圧の酷烈さから、勤王派に世間の同情が集まるようになり、幕府はかえって満天下の憎悪を買う羽目に陥った。&lt;br /&gt;　その当の責任者である井伊が、水戸と薩摩の藩士によって殺害されたのは、つい先日の話なのである。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　桜田門外の変の以前から進めてきた話が、大老の挫折後、ここでさらに朝廷によって蹴られてしまえば、幕府の権威は間違いなく泥にまみれる。追いつめられた幕府は、やむなくその毒、すなわち条約破棄と攘夷断行を呑んだ。まずは公武の合体こそ肝要、帝の信頼厚い公卿が佐幕派であるをさいわい、攘夷は後から適当に絵を描いていけばよい、と、それが幕閣の政局判断だった。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　この付帯条件が後々、幕府を苦しめる宿痾に育っていく。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　佐幕派と見られていた岩倉が一転、倒幕の謀主となるのはご存じの通りだ。が、よくよく考えてみれば、幕府を追いつめた攘夷断行の約束も、その後の王政復古も、すべて筋書きを実行したのは岩倉具視その人である。&lt;br /&gt;　そもそも彼は本当に佐幕派だったのか。&lt;br /&gt;　これが図太くも残忍な偽装に見えてしまうのは小生だけだろうか。つまり情勢がどう転んでも確実に権力の中心を幕府から朝廷へとシフトさせるべく目論んでおり、降嫁の一件も、最初から朝廷が国政の主導権にアプローチする好機と見定め、進めさせたのではなかったか。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　とまあ、言い出せばキリがないのだが、岩倉具視という男は、後世に対してさえ、つい勘ぐらせてしまうほどに謀略能力の高い公卿だった。往時の世間にあっては、公卿といえば過激派の代表だった三条公の活躍ばかりが目立ったが、倒幕と朝権奪還以外に何のビジョンもない人だったのか、回天の大業を果たし、みずからトップの地位に就いた後は、もっぱら奏上と調整に終始、朝廷内外の政治は岩倉がすべて代行した。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　それにしても人というのは、それぞれに表裏と役割がある。一片の正邪観や好悪の情では、政治も世の中も語れない。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/2427495263565810554-6295208071477955916?l=kinnynews.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='replies' type='application/atom+xml' href='http://kinnynews.blogspot.com/feeds/6295208071477955916/comments/default' title='コメントの投稿'/><link rel='replies' type='text/html' href='http://kinnynews.blogspot.com/2011/10/blog-post_14.html#comment-form' title='3 件のコメント'/><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/2427495263565810554/posts/default/6295208071477955916'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/2427495263565810554/posts/default/6295208071477955916'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://kinnynews.blogspot.com/2011/10/blog-post_14.html' title='日本の原則（７）岩倉具視'/><author><name>kinny Halentino</name><uri>http://www.blogger.com/profile/14683346301918691511</uri><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='32' height='25' src='http://1.bp.blogspot.com/-Am7xEkC0nk0/TnrQ5N4sUII/AAAAAAAAAAc/F917vsp1gAY/s220/IMGP0018_ss.JPG'/></author><thr:total>3</thr:total></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-2427495263565810554.post-3962700465570931973</id><published>2011-10-12T17:06:00.000+09:00</published><updated>2011-10-14T15:07:15.543+09:00</updated><category scheme='http://www.blogger.com/atom/ns#' term='東アジア情勢'/><category scheme='http://www.blogger.com/atom/ns#' term='政治家'/><category scheme='http://www.blogger.com/atom/ns#' term='中国'/><category scheme='http://www.blogger.com/atom/ns#' term='憲法改正'/><category scheme='http://www.blogger.com/atom/ns#' term='日中共同声明'/><category scheme='http://www.blogger.com/atom/ns#' term='国際関係'/><category scheme='http://www.blogger.com/atom/ns#' term='周恩来'/><category scheme='http://www.blogger.com/atom/ns#' term='遅れて来た帝国'/><category scheme='http://www.blogger.com/atom/ns#' term='日本'/><category scheme='http://www.blogger.com/atom/ns#' term='政治'/><title type='text'>日本の原則（６）中国と改憲</title><content type='html'>　日中共同声明は両国の国交正常化を目的に当時の田中首相と周恩来首相によって発表された。&lt;br /&gt;　内容を確認するまでもなく、国交正常化は、すなわち台湾との断行を意味した。が、日本は、中国を台湾の一方的主権者として承認しなかったことにより、自国の権益の保護には事実上成功していた。旧ソ連から必要以上に敵視されることを避けつつ、かつ旧ソ連という愚かしい頭上の恐怖を大幅に減殺する、というオマケ付きである。中国にしてみれば満点といってよいだろう。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　台湾に言わせれば、&lt;br /&gt;「日本は恩を仇で返した」&lt;br /&gt;わけだ。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　もっとも、日本は中国に対しても、国民党が日本に対して売ったのと同様の恩を売らせた。これが最大の成果であり、最低条件でもあった。合意では日本の内政に干渉しないこと、賠償権を放棄することなどが謳われていた上に、台湾における中国の主権さえ承認されていなかったが、中国は、旧ソ連の侵攻を妨げるための条件としては、十分に安いと判断したわけだ。そして、その判断はこの上なく正しかった。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　中国は日本に売った恩を元手に、後に巨額の援助を得ることになる。&lt;br /&gt;　その援助が現在の中国の隆盛を築いたことを思うとき、やはり彼らは負けて勝ったのであろう。敵対していた旧ソ連との力関係は完全に逆転、世界に対するプレゼンスも、もはや現ロシアなど歯牙にもかけない勢いだ。結局、戦後賠償など目先のカネのために関係を悪くすることの愚かしさ、旧ソ連のように、一方的な日ソ破約の末の名なき戦いをすることの先のなさを、この関係ほど端的に表現しているものはない。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　ならず者の振る舞いは、ひたすらわが身を滅ぼすのみであり、中国は途中、旧ソ連との対峙を通して得た恐怖によって、くだんの邪道を逃れ得た。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　が、人というのは、忘れやすいものである。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　カネのチカラによる国威の高揚は、彼を増上慢にした。相互に権益を持ち合うようになると、そのことで人質でも確保したかのように心得たのか、領空領海侵犯をくり返し、隣国の先祖に対する弔いに土足で上がり込み、これに干渉しては中止に追い込んで、強いて日本に無用の屈辱を植え付けた。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　そのような蛮行が中国の国威高揚に寄与すると信じているのなら、とんだ間違いである。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　敗北した旧ソ連とまったく同じ成り行きで、次は自身が敗北するかも知れないということに、中国は早々に気付くべきだろう。台湾の言論を対岸の武力で抑圧しようとして、かえってアメリカの介入を招いてさらした恥を忘れたとしたなら、もはや救いようもなかろう。あるいは成算なきみずからの愚行を憎まず、逆にアメリカや日本を憎んだとしたなら、とんだ心得違いというものである（そうした意味において江沢民とは、われわれにとって代えがたい僥倖であったのだが．．）。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　ともあれ今後の中国の曲折しだいで、われわれは、膨張ロシアに対峙したかつてのイギリスを再演しなければならなくなるだろう。われわれは皆兵制を視野に入れた憲法改正を急がなくてはならない。そして直言するならば、はや一刻の猶予もない。今後の10年で確実に立場が逆転する日中関係を前に、われわれは軍事的な中期対峙に備えおく必要がある。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　政治力では、すでに赤き中華帝国の方が、われわれをはるかに凌駕している。&lt;br /&gt;　おまけに実力面でも日本を凌いだばかりだ。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　これまでに何度も書いてきたことだが、いつまでも中国がおとなしくしていると信じる愚か者は、かつてローマに滅ぼされたカルタゴの悲哀を、いま一度、よくよく思い出しておくべきだ。いつかわれわれが大国でなくなった二十一世紀中の某日、赤き帝国は、ベトナムやフィリピン相手に振り回している般若の面を、われわれに対しても用いるようになるだろう。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　これだけは、くれぐれも言っておく。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/2427495263565810554-3962700465570931973?l=kinnynews.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='replies' type='application/atom+xml' href='http://kinnynews.blogspot.com/feeds/3962700465570931973/comments/default' title='コメントの投稿'/><link rel='replies' type='text/html' href='http://kinnynews.blogspot.com/2011/10/blog-post_12.html#comment-form' title='4 件のコメント'/><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/2427495263565810554/posts/default/3962700465570931973'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/2427495263565810554/posts/default/3962700465570931973'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://kinnynews.blogspot.com/2011/10/blog-post_12.html' title='日本の原則（６）中国と改憲'/><author><name>kinny Halentino</name><uri>http://www.blogger.com/profile/14683346301918691511</uri><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='32' height='25' src='http://1.bp.blogspot.com/-Am7xEkC0nk0/TnrQ5N4sUII/AAAAAAAAAAc/F917vsp1gAY/s220/IMGP0018_ss.JPG'/></author><thr:total>4</thr:total></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-2427495263565810554.post-2438252993956518913</id><published>2011-10-10T20:18:00.000+09:00</published><updated>2011-10-10T20:18:33.596+09:00</updated><category scheme='http://www.blogger.com/atom/ns#' term='日本史'/><category scheme='http://www.blogger.com/atom/ns#' term='政治家'/><category scheme='http://www.blogger.com/atom/ns#' term='小松帯刀'/><category scheme='http://www.blogger.com/atom/ns#' term='幕末'/><category scheme='http://www.blogger.com/atom/ns#' term='外交'/><category scheme='http://www.blogger.com/atom/ns#' term='革命'/><category scheme='http://www.blogger.com/atom/ns#' term='明治維新'/><category scheme='http://www.blogger.com/atom/ns#' term='日本の偉人'/><category scheme='http://www.blogger.com/atom/ns#' term='薩摩'/><category scheme='http://www.blogger.com/atom/ns#' term='日本'/><title type='text'>日本の原則（５）小松帯刀</title><content type='html'>　薩摩藩への倒幕の密勅が下された当日、異例の事ながら、二条城にて諸大名の重臣に将軍慶喜公から大政奉還の諮問が行われ、粗々了承された。その翌日、長州藩にも倒幕の密勅が下されたが、まさにその日、大政奉還の上表が提出された。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　この複雑怪奇な同時進行は、まさに維新後を占う切所であったろう。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　倒幕の幕とはまさに幕府の意であるため、幕府であることを辞められてしまえば、倒幕主戦派の最右翼であった長州の大村、土佐の中岡はその理論的根拠を失う。中岡は薩の西郷の内諾も取り付けていたのだが、不戦派の予想外の健闘に舌打ちしたに違いない。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　一方、朝廷では総じて親幕派が占めていたのだが、慶喜の上表の受理は拒んだ。この現象こそがまさに日本政治のエッセンスといえるだろう。彼ら朝臣に情勢判断などはなく、ただひたすらに慶喜の足元を見ていた。強いて言えば、それだけが彼らの情勢判断であり、それだけを頼りにしてきたがゆえに、二千年からの命脈を保ってきたのだ。拒否された慶喜が弱れば弱るほど、彼らは足元を見た。自分たちが頼られるということは、そこに重大な意味があるということだ。もし意味が薄いのであれば、自分たちを跨ぎ越して事を運ぶに違いないのだ。強いて受理せよというからには重大で、すなわち危険だということなのである。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　彼らにとって親幕は都合良く、中立は本意で、勤王は怖ろしい。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　その「怖ろしい」の意思に対して配慮が篤くなるのが動乱期の貴族の常であった。殿様政治の限界であろう。要するに慶喜は、朝廷にナメられていたのだ。&lt;br /&gt;　が、その翌日、急転して上表は受理されることになる。薩摩の重臣である小松帯刀と土佐の後藤象二郎が二人して二条斉敬にねじ込み、力ずくで呑ませたのだ。結果を重視しない取引など、藩の重役にはありえない。だが殿様は平気である。そうした点において、慶喜はやはり殿様だった。結果、一時ではあるものの、他藩の家臣に救われた恰好になった。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　慶喜を救ったこの後藤こそが、不戦派の代表的な存在だった。元は同じ土佐の坂本龍馬の建議だが、後藤はこの案を聞くなり、これを土佐の藩論にすべきと直感した。さっそく藩主の容堂公の承認を得て、走り回り駆け回り、慶喜を説きに説いて成立をみた。後藤は薩の西郷の内諾を得るべく奔走した折、密勅降下の進捗を確認していたに違いなく、恐らく慶喜に対しては、その事実は巧みに隠蔽しながらも、動議の存在については匂わせていたのではなかったか。慶喜は慶喜で、これを奇貨と見て喜んだろう。クーデターを未然に防ぐという意味においては当然ながら、そのことを知らせ来た由をもって、土佐をわが友軍とみなしたのである。後藤は後藤で、奉還後最大の大名となる徳川家に恩を売っておけば、御親政の折には一躍土佐が国論をリードできるかも知れない。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　が、同じ土佐ながら主戦派の中岡は時勢に対する見解がまるで違った。&lt;br /&gt;　彼は幕府を大なりと考えなくなっていたのである。この情勢に到るはるか一年近くも前に、長州の軍事を握る大村益次郎から、幕府がすでに死に体であるとの確固たる見解を得ていた。主戦派の中心的な存在であった大村は、長州軍を率いて幕府軍と戦った際、すでにその決定的な弱点を見抜いていたのだ。幕府は国内無敵の艦隊と、洋式武装された強力な軍隊を持ってはいたが、軍を統括できる人材がいなかったし、その仕組みもなかった。烏合の衆を、学問と殿中所作が出来るだけのリーダーが率いていた。トップが愚かな軍隊というのは、一戦や二戦は勝ち得ても、連戦するうちにさまざまな不確定要素に惑わされ、うつろい、自壊していくものなのだ。大村はそれを肌で知っていた。であれば国難の折、一刻も早くかかる勢力は潰しておくべき、と考えたのであろう。長州軍が幕軍を押し返した時点では、誰もが腰を落ち着けたい気持ちになっていたが、大村はどこまでも先を見越している男だった。討議をくり返す政治堂の桂小五郎を尻目に、一刻も早く軍を進めるべき旨を執拗にくり返していた。中岡の主戦論とは、そうした硝煙の裏打ちあってのものであり、後藤のような政治遊びの不戦論とは根本が違った。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　が、ここはひとまず政治遊びが勝った。&lt;br /&gt;　慶喜は一刻の猶予とチャンスを得たというべきだろう。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　岩倉をトップに、長州と中岡、西郷と大久保が主戦派であるのに対して、不気味なのは薩の小松であろう。何と言っても彼は降下した密勅の請書にも署名しているのだ。つまり、どう転んでも薩摩が遅れをとらないように考え抜いた結果の行動ではなかったか。大政奉還が間に合わず倒幕となれば、薩摩の家老である自身が署名していることで、藩にとっても密勅が十分公式のものになり、大政奉還がうまくいき、坂本と後藤が目論んだように土佐が御親政後の国政をリードするようになっても、それを協同で推進した小松が薩摩にある限り、西郷や大久保はともかく、藩がないがしろにされることはない。現に慶喜はこのために、時局の最後の最後まで薩摩を仮想敵視しながらも、正面の敵であるとは考えていなかったのだ。明治後も、ときに薩摩が憎いと漏らしていたが、それは薩摩というより、多分に小松の腹芸ではなかったか。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　小松は土佐の坂本と同志といってよい仲だった。多分に影響を受けた故に、坂本同様、視野はすでに世界を飛翔しているのかと思いきや、事態がどこまで進んでも、それはそれとして、最悪の事態をいつも同時に考えておくタイプの男だったらしい。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　余計なことを払いのけ、事実を取り出していくと、じつに恐るべき薩摩の謀主の姿が浮かび上がってくる。小松帯刀とは、大河ドラマに出てきたような頼りない阿呆青年とはまるで違い、それどころか、煮ても焼いても食えないような、長命していればどこまでその手腕を発揮したかさえ想像できないほどの怪物だったのではなかったか。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　その後、主戦派の中岡、不戦派の坂本がともに近江屋で暗殺され、耳目を失った革命の謀主岩倉が激怒、流れは一気に主戦となり、慶喜追討、戊辰戦争へとつながっていく。&lt;br /&gt;　維新後の革命政府では軍政のトップにあった大村が一時独裁状態になったが、同時期の外交は、小松が一手に束ねていた。というのは、臨時官制が太政官に移行した際、その他大勢の中から、小松が事実上のトップとして抜き上げられており、これは維新の功によるというより、本物の実力による沙汰であると考えるしかない。大村も形式上は、太政官移行と同時に軍部のトップに就いた。小松も恐らくは同断である。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　が、ほどなくして病に倒れた。&lt;br /&gt;　もし病さえなければ、と思うと、空恐ろしいほどである。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/2427495263565810554-2438252993956518913?l=kinnynews.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='replies' type='application/atom+xml' href='http://kinnynews.blogspot.com/feeds/2438252993956518913/comments/default' title='コメントの投稿'/><link rel='replies' type='text/html' href='http://kinnynews.blogspot.com/2011/10/blog-post_10.html#comment-form' title='5 件のコメント'/><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/2427495263565810554/posts/default/2438252993956518913'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/2427495263565810554/posts/default/2438252993956518913'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://kinnynews.blogspot.com/2011/10/blog-post_10.html' title='日本の原則（５）小松帯刀'/><author><name>kinny Halentino</name><uri>http://www.blogger.com/profile/14683346301918691511</uri><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='32' height='25' src='http://1.bp.blogspot.com/-Am7xEkC0nk0/TnrQ5N4sUII/AAAAAAAAAAc/F917vsp1gAY/s220/IMGP0018_ss.JPG'/></author><thr:total>5</thr:total></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-2427495263565810554.post-3896870440415194735</id><published>2011-10-09T19:20:00.000+09:00</published><updated>2011-10-09T19:20:03.880+09:00</updated><category scheme='http://www.blogger.com/atom/ns#' term='日本史'/><category scheme='http://www.blogger.com/atom/ns#' term='欧州の偉人'/><category scheme='http://www.blogger.com/atom/ns#' term='シーボルト'/><category scheme='http://www.blogger.com/atom/ns#' term='オランダ'/><category scheme='http://www.blogger.com/atom/ns#' term='エリート'/><category scheme='http://www.blogger.com/atom/ns#' term='国際関係'/><category scheme='http://www.blogger.com/atom/ns#' term='明治維新'/><category scheme='http://www.blogger.com/atom/ns#' term='ドイツ'/><title type='text'>日本の原則（４）シーボルト</title><content type='html'>　欧州ではイギリスとオランダに限って交易の門戸を開いたのが江戸幕府の政策であったが、よほど日本に商業的な魅力がなかったのか、イギリスは早々に撤退している。ひとつには、オランダ人は日本の需要を心得ており、持ち込む商品がことごとに喜ばれたといわれる。また当時の国際関係は、商業資本が主体的に進展させており、世界最古の株式会社である東インド会社という足場を持つオランダが、機動力の面で他国を圧倒していたという事情もある。もっとも、このエントリの主人公であるシーボルトが日本をおとずれる以前に、欧州でフランス革命が起こり、隣国オランダは蹂躙され、東インド会社もまた吹き飛ばされていた。シーボルトが日本に来たのは幕末もほど近いナポレオン戦争後のことだ。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　長崎に到着するなり、すぐに問題が発生した。&lt;br /&gt;　シーボルトのオランダ語があまりにヘタだったため、長崎の幕府役人が怪しんだのである。&lt;br /&gt;　それもそのはずで、シーボルトは旧教皇領の山地ドイツのエリート出身だから、元来がオランダ市民ではなく、もちろん母国語はドイツ語なのである。カトリックがご禁制だった日本にとり、もっとも存在してはいけないグループだったといえる。&lt;br /&gt;　これに対し、元来が度胸の据わった男であるシーボルトは、平然と&lt;br /&gt;「山地オランダ出身だ。発音がおかしいのは山地オランダの方言だ」&lt;br /&gt;　と言ってのけた。オランダに山地などない。調べられればたちまち露見するところだったが、おそらくシーボルトの平然とした態度に、担当の役人もすっかり信じてしまったのだろう。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　シーボルトは出島で医療に従事しつつ、長崎で西洋医学を教える鳴滝塾を開いた。&lt;br /&gt;　ここからは高野長英や伊藤玄朴、後に大村益次郎と懇意になる二宮敬作なども出ており、日本にとってその影響は小さくないが、驚くべきことに彼が日本に滞在したのはわずか４年足らずだった。いかにそのインパクトが特別なものであったか想像がつこうというものだ。&lt;br /&gt;　先にも少し触れたが、シーボルトは元来が欧州の典型的なエリート階級の出身者で、誇り高く、腕っ節にも自身があり、当時の日本の武士達からも十分に尊敬を集めることのできる人格と才能を備えていた。というと、また日本人の考える「インスタントなエリート像」と、欧州の本物のエリートとの違いによって混乱を来しそうなので少し触れておくと、欧州のエリートとは、戦後の日本で作り上げられた非常識でひ弱なクイズチャンピオンのイメージではない。誇り高く、矜持に満ち、貴族としてどうふるまうべきかという教養面を第一に鍛え上げられた戦士であり、学問はどちらかといえば二の次であった。たとえばこのシーボルトなどは学生時代から数十度に渡って決闘をくり返しており、日本に来てからもオランダ商館長のぞんざいな扱いに憤慨し、決闘を申し込んだりしている。&lt;br /&gt;　こうした路傍の修羅場を幾度となくくぐり抜けているのが字義通りの「エリート」であって、マンガの世界で不良にからまれるところを勝気な女の子に「やめなさいよ、△△クンはあんたと違ってエリートなんだから」などと助けて貰っているようなボンクラとは大違いなのだ。&lt;br /&gt;　日本には古来エリートなどおらず、強いて言えば江戸期の尚武の藩の士族に散見されるくらいであろう。現代に到っては無教養な乱暴者か、無教養なクイズチャンピオンかのどちらかしかおらず、エリートなど皆無である。日本でエリートという言葉を聞けば、間違いなくそれはニセモノであり、すぐに眉にツバを付けることをお進めする。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　余談が過ぎた。&lt;br /&gt;　つまり、シーボルトのような本物のエリートが日本を訪れたことにこそ、歴史に対する大きな意義があったのである。門下生たちのシーボルトに対する敬愛の仕方は、まったく尋常ではなかった。誰もが終生シーボルトを慕い続け、その教えを神の教えのごとくに守った。鎖国下にあったため、常に時代から遅れ気味の、それも机上医学ばかりを強いられてきた日本の西洋医学の徒が、いきなりヨーロッパ一流の医学に接するわけだから、医学生たちの興奮は当然であったろう。が、何より彼らをして奮い立たせたのは、それまで僅かながらも接し得てきた西洋人とはまったく異なり、鍛え上げられた本物の勇士が手をとって教えたということではなかったか。&lt;br /&gt;　弟子たちは終生、シーボルトについて語る毎に嘆息し、涙ぐんでは居住まいを正したという。二宮敬作などは感極まって号泣したと言われるが、そうした門人たちのただならぬようすを見て、おそらく周囲は、西洋に対する畏敬の念を少なからず芽生えさせたに違いない。つまり門人たちの涙に、異国の最上質のエッセンスを垣間見、西洋全体について、何やら優れたもの、自分たちよりも上質な世界といったイメージを抱いたのではなかったか。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　もちろんその反対もあったに違いない。&lt;br /&gt;　他人が誰かを賞賛するようすを見てさえ、手放しに賛同する者と、その中身を確認しようとする者と、憎悪する者とに別れるものだ。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　賛同するものは開国派になり、確認する者は維新の設計者になり、憎悪する者は維新のエネルギーになった。&lt;br /&gt;　そう、エネルギーの主体とは、いつでも盲目で、愚かなものなのだ。&lt;br /&gt;　これを取り違えてはならない。&lt;br /&gt;　対象としての彼らをもって、愚かだ、と称して憂うことこそ愚かなのだ。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;「愚か」を全否定した先に政治はないと心得よ。&lt;br /&gt;　これだけはくれぐれも言っておく。&lt;br /&gt;（と、偉そうに言いながら小生自身、常にみずからを戒め、戒めながらも時に自在でないことを併せて告白しておく）&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　その後、シーボルトは一時帰国の間際、禁制品の所持が発覚し、幕府から追放を命じられる。もちろん禁制品といったところで弟子たちの協力なしに調達などあり得ないはずだが、結局は直接日本地図の写しを作成した高橋景保のみが死罪となった。高橋は弟子というより友人だったが、幕府の高官でもあったため、免れなかったのだろう。鳴滝塾の弟子たちも投獄され、詮議を受けたが、シーボルトがすべての罪をみずからかぶり、自身の身柄と引き替えにする旨をもって彼らの助命を嘆願したためか、やがて放免された。が、みずから申し出たにも関わらず、なぜかシーボルト自身も拘留されず、追放のみを命ぜられて帰国した。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　シーボルトがすべての罪を被るということは、すなわち弟子たちが、みずからの意思で禁制品の入手に動いたことを否定したということであり、つまるところ、すべての物品に関して、シーボルトがみずから企て、依頼し、奔らせたということになる。弟子たちを許すのであれば、シーボルトが抑留されないのは理屈に合わないわけだ。&lt;br /&gt;　これは私見だが、おそらくは幕府内に、特に悪意に基づいた犯行でない旨の共通認識があったに違いない。高橋に関しては幕臣であったため、シーボルトの善悪如何によらず、行為そのものが罰せられるべきであって、後はひたすら畏れ入れ、国禁をみだりに犯してはならん、という、江戸幕府得意の「戒め刑」だったのだろう。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　これも推測だが、彼が本物のスパイや諜報工作員であれば、肝心の情報も伝聞も持ち帰らないまま、引き替えに自分が抑留されるなど、望むわけがないからである。当時の常道である&lt;br /&gt;「其方、弟子が意向の儘にて探索せり旨申したるに及ぶ有れば、帰国の儀請合可し」&lt;br /&gt;　が出されれば、苦悶の表情を浮かべながらも、然りと答えたに違いないのだ。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　われわれはシーボルトを得、第一世代の志士を得、その後ペリーを得た&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　維新は行われるべくして行われた。&lt;br /&gt;　第一世代の志士の産みの親は、アヘン戦争である。&lt;br /&gt;　シーボルトに接し、アヘン戦争の情報に接して、良かれ悪しかれ、大興奮を発した日本人の感受性が、救国の回天をなさしめたのだ。幕府には百才あったが、この報に接して奮い立つ素養、みずみずしい感受性には少々欠けていた。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　ちょうどいまの永田町のように。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　ワケ知り顔のインポに、政治はできない。&lt;br /&gt;日本はすでにオーバーホールを必要としている。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/2427495263565810554-3896870440415194735?l=kinnynews.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='replies' type='application/atom+xml' href='http://kinnynews.blogspot.com/feeds/3896870440415194735/comments/default' title='コメントの投稿'/><link rel='replies' type='text/html' href='http://kinnynews.blogspot.com/2011/10/blog-post_09.html#comment-form' title='19 件のコメント'/><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/2427495263565810554/posts/default/3896870440415194735'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/2427495263565810554/posts/default/3896870440415194735'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://kinnynews.blogspot.com/2011/10/blog-post_09.html' title='日本の原則（４）シーボルト'/><author><name>kinny Halentino</name><uri>http://www.blogger.com/profile/14683346301918691511</uri><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='32' height='25' src='http://1.bp.blogspot.com/-Am7xEkC0nk0/TnrQ5N4sUII/AAAAAAAAAAc/F917vsp1gAY/s220/IMGP0018_ss.JPG'/></author><thr:total>19</thr:total></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-2427495263565810554.post-57888225841439024</id><published>2011-10-07T11:35:00.000+09:00</published><updated>2011-10-07T11:35:03.799+09:00</updated><category scheme='http://www.blogger.com/atom/ns#' term='共同体'/><category scheme='http://www.blogger.com/atom/ns#' term='日本史'/><category scheme='http://www.blogger.com/atom/ns#' term='減点主義'/><category scheme='http://www.blogger.com/atom/ns#' term='クリエイター'/><category scheme='http://www.blogger.com/atom/ns#' term='近代'/><category scheme='http://www.blogger.com/atom/ns#' term='正岡子規'/><category scheme='http://www.blogger.com/atom/ns#' term='日本の偉人'/><category scheme='http://www.blogger.com/atom/ns#' term='秋山 真之'/><category scheme='http://www.blogger.com/atom/ns#' term='官僚'/><category scheme='http://www.blogger.com/atom/ns#' term='日本'/><title type='text'>日本の原則（３）子規と秋山</title><content type='html'>　正岡子規が亡くなったのは日露戦争前夜である。&lt;br /&gt;　子規は野球好きだったことが知られているが、そもそもこの球技を「野球」と書くのは、子規がそのようにしたためたのが初めであると言われている。自身の本名が「昇」であったところから「野球」を「ノ・ボール」と読ませたそうだが、後世は斟酌せずに野球「ヤキュウ」と読んだ。&lt;br /&gt;　当たり前か。&lt;br /&gt;　ともあれ子規とは独創的かつ好戦的でありながら、茶目っ気のあるリーダー気質の男だった。敢闘精神が旺盛で、独力でじつに多種多様の現代日本語を作ったが、かといって聞き分けのない男ではなく、他者の意見をよく容れたともいわれる。交友が広く、母の家の関係から、漢学を通して当時の知識層にも顔が効いた。教養の充実と、奥行きの広さが、後の子規の活動を非凡なものにした側面は大いにある。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　ところで、なぜこのブログで子規のような文学者を取り上げたか、という点、不審に思われる向きもあるかも知れない。もちろん小生の狙いは、子規の文学そのものにあるわけではない。子規のような、従来の形式に囚われない人間、病身で、貧しく、気概のみを糧にして生きるような男を見るにつけ、明治という時代のエネルギー、多様さを意識せざるを得ないのである。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　日本の文学史をひもとくと、正岡子規の系譜に高浜虚子、夏目漱石が連なり、まるで二人が子規の弟子のような恰好になっているが、実際には二人とも友人であった。むしろ病身の子規の面倒をみてやっていたようなぐあいで、子規は彼らを初めとした大勢の人々の献身のおかげで、かろうじて文学上の偉業を達成し得たと言うべきだろう。漱石が松山で働いていた頃、地元の子規は、漱石にうまいメシを奢ってやる、と誘い出し、自身も食べたあと、代金を漱石に払わせてしまった。まこと身もフタもない男なのであって、もし現代のような陰険な世の中に子規があったとしたら、病気は平癒したかも知れないが、存外平凡な男として一生を過ごしたかも知れない。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　子規はひそかに軍人を志していた。いや、あこがれていた、と言った方がいいのだろう。不治の病身を押して日清戦争に記者として従軍し、病状を決定的に悪化させてしまったほどに国事への思いは強かったが、気概はともかく、彼の虚弱な体質が、軍人の資格を与えなかった。彼は生死をさまよい、神戸の病院に担ぎ込まれ、その後は国事など、夢見ることさえ愚かなありさまとなった。&lt;br /&gt;　逆に、数多い彼の友人の一人、秋山真之は、文学者を志していた。頭脳が鋭敏で、子規のように好戦的な性格ながら、協調性はなく、しぜん拡がりのある人望は持ち合わせなかった。兄の強い勧めで軍人に転向した後も、この性質は改まらず、いよいよ孤高の傾向を強くした。どこでもかでも豆をかじり歩く不作法の変わり者だったが、一種の威があり、軍規に厳しい海軍にあっては例外的なことながら、周囲も強いて彼を矯正しようとはしなかった。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　かつては文学を志向していたこの奇妙な変人が、日本海軍の全作戦を考案し、日本を遙かに凌駕する大国ロシアの主要な艦艇を、残らず海の底へ沈めたのである。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　後の海軍を想起されたい。秋山真之のような男が、「エリートコース」と化した兵学校のハンモックナンバーと、集団の中で場の空気を読みつつ周囲と協調していくことだけが出世条件のような環境で、軍令部の将帥から推され、かの大任を命ぜられるようなことがありえようか？&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　後の海軍には、秋山真之のような文学者崩れの狷介な天才を擁することで、国益を保全しようとする山本権兵衛もいなければ、才能を探すことで日本を国難から救い出そうとする組織の風通しの良さもなかった。バカの集団が招きがちな「共感重視」「協調性第一主義」「空気至上主義」のインスタントエリートによる卑近な安心指向が、プライドを無用に逆なでする有能な変人の出現を拒み、組織を才能重視の「組織体」でなく、構成員の居住性を重視した「共同体」へと変化させていったのである。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　この愚劣かつ鈍重な共同体指向は、今なお続いている。&lt;br /&gt;　というより、ほとんど戦後日本の風土病のようになってきてしまっており、平成以降の日本など、戦後のエネルギーの惰性で到達しただけの、原理空白の時代であったという他ない。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　省益と空気で動く霞ヶ関は言うに及ばず、われわれのあらゆる組織、あらゆる団体において、共感第一主義、空気至上主義による破滅の原則が浸透しており、日本人の集団が、高度に戦略的な資質を要求される分野において、今後世界と互していくことが、極めて難しくなりつつある。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　たとえば高度成長期に一世を風靡したクリエイター達の就業以前の状態がどうであったか。まずまともに大学を卒業してすぐに就職したような者などほとんどおらず、借金を抱えて女のところに転がり込んでいたり、特に見込んで、まったく分野違いの世界から引っ張ってきていたり、放蕩していた役員の息子を、何とか使ってくれないかということで放り込んだりと、ロクなのがいないこと驚くばかりなのだ。&lt;br /&gt;　これらが日本のクリエイティブに革新をもたらし、のちにその代理店の地位を不動にするほどの業績を挙げた。数人のスーパーマンが、集団の中でコンセンサスを得ると、まったく能のない集団も、少しづつクリエイティブな人種へと変貌していく。周囲の空気を読むばかりで、何も判断しないことが、けしてプラスにならないということを理解し始めると、誰もが主体的になっていくものなのだ。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　だが、こうした企業の成功体験も、愚鈍な者にとっては自分の存在価値を低下させていく考えなので、なるべく天才を低く評価しようとし、どのような話にも但し書きをつけるようになる。その但し書きの集積が年月を経ると、責任回避の傾向を生み、人事評価の減点主義を生み、よくいえば全方位的で、悪く言えば突き抜けたところのない田悟作ばかりが量産されることにつながっていく。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　で、言うのだ&lt;br /&gt;「いまの若い奴はダメだね。人材がない」&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　いまほとんどの企業がやっているような興信所を通じた身辺調査や減点主義選考を、もし当時のクリエイター達に当てはめたらどうなるだろうか。借金はダメ、バクチもダメ、協調性重視、などとやっていくと、ついには一人もいなくなってしまうのである。責任を追及されたくない凡人の集団とは、そういうものなのだ。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　ゴマカシやデタラメはできても、本物は創れない。&lt;br /&gt;　後はみんなで協調しながら居心地良く沈没していくだけなのだ。&lt;br /&gt;　まだこれがクリエイターなら、その協調性が営業につながり、スキマ的な発展が期待できるかも知れない。&lt;br /&gt;　要は担当者が良ければ良いのであって、最良でなくとも敗北ではない。&lt;br /&gt;　だが、これがシビアな技術分野での競争や、軍隊である場合は、目も当てられない。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　だからわれわれは戦争にも負けたし、いまなお国力は下降を続けているのである。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　官僚の減点主義が、日本をまさに沈めようとしている。&lt;br /&gt;　識者にかかればすぐに論破されるような前時代的な建前論でいまだに官僚を懸命に擁護しようとする退行メディアにダマされてはならない。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　連中は、いつでも一方通行であることを利用して、無知な国民を食い物にしているのだ。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　いったいどういう存在が、秋山真之や夏目漱石、正岡子規のような存在を拒むのか。&lt;br /&gt;　われわれは今一度、頭をまっさらにして、よくよく考えるべきであろう。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　官僚を歓迎する精神こそ、亡国の真犯人である。&lt;br /&gt;　多様であることを拒む者こそ、亡国の真犯人である。&lt;br /&gt;　減点主義こそ、亡国の真犯人である。&lt;br /&gt;　協調性の美名の元、長じたる者を忌避し、空気読みを強いる者こそ、亡国の真犯人である。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　敵を見誤ってはならない。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/2427495263565810554-57888225841439024?l=kinnynews.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='replies' type='application/atom+xml' href='http://kinnynews.blogspot.com/feeds/57888225841439024/comments/default' title='コメントの投稿'/><link rel='replies' type='text/html' href='http://kinnynews.blogspot.com/2011/10/blog-post_07.html#comment-form' title='2 件のコメント'/><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/2427495263565810554/posts/default/57888225841439024'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/2427495263565810554/posts/default/57888225841439024'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://kinnynews.blogspot.com/2011/10/blog-post_07.html' title='日本の原則（３）子規と秋山'/><author><name>kinny Halentino</name><uri>http://www.blogger.com/profile/14683346301918691511</uri><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='32' height='25' src='http://1.bp.blogspot.com/-Am7xEkC0nk0/TnrQ5N4sUII/AAAAAAAAAAc/F917vsp1gAY/s220/IMGP0018_ss.JPG'/></author><thr:total>2</thr:total></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-2427495263565810554.post-8739755856084921998</id><published>2011-10-06T15:07:00.001+09:00</published><updated>2011-10-06T15:07:12.925+09:00</updated><category scheme='http://www.blogger.com/atom/ns#' term='外交'/><category scheme='http://www.blogger.com/atom/ns#' term='思想'/><category scheme='http://www.blogger.com/atom/ns#' term='近代'/><category scheme='http://www.blogger.com/atom/ns#' term='国際関係'/><category scheme='http://www.blogger.com/atom/ns#' term='革命'/><category scheme='http://www.blogger.com/atom/ns#' term='哲学'/><category scheme='http://www.blogger.com/atom/ns#' term='自由'/><category scheme='http://www.blogger.com/atom/ns#' term='ドイツ'/><category scheme='http://www.blogger.com/atom/ns#' term='日本'/><category scheme='http://www.blogger.com/atom/ns#' term='政治'/><category scheme='http://www.blogger.com/atom/ns#' term='世界史'/><title type='text'>日本の原則（２）ドイツと近代</title><content type='html'>　ドイツは戦後、わりあい早期に再出発を果たした。ドイツ連邦、いわゆる西ドイツとしての発進だが、現在は民主共和国（東ドイツ）を併せ、欧州一の大国である。&lt;br /&gt;　が、西にフランス、東に旧共産圏という、なんともいえない類のパワーに四境を扼された地政学的なポジションのためか、大国としてのイメージは皆無だ。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　息子にフランスの指導者の名前をたずねると、ミッテランだシラクだサルコジだと、何の苦もなく２、３の名前が飛び出してくるのに対し、ドイツは、というと、くだんのオバサンの名前を思い出すだけで四苦八苦している。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　国際的な影響力、発言力は、わが国同様その国力に比例して強力だが、けして人々の記憶に留まる存在でない。&lt;br /&gt;　別にドイツをバカにしようとしているわけではない。&lt;br /&gt;　この国の、日本との奇妙な相似に、いわば思わず筆先が、ため息を発したのである。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;「近代」と呼ばれる世界史的な大変革時代は、ひとつの時代区分としてみるには、あまりに魔術的だ。&lt;br /&gt;　たとえば上に挙げた日本とドイツは、それぞれの地理的な影響によって、ほんの少し、他の先進国より近代への突入が遅れた。これとて、深刻な文化的後進性によって生じた遅れではなく、ちょっとした行き違いの類によるものだ。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　その「ちょっとした」行き違いが、その後100年以上にわたり、日本とドイツをして、半狂乱の異調狂騒曲を奏でさせた。&lt;br /&gt;　われわれ二国は共通の武器を持っていた。「世間知らず」と「意識過剰」である。ドイツと日本には、いまだにどこか、往時の後進国としての陰がある。えも言えぬ引っ込み思案と、せきを切ったような狂暴がたえず交錯するさまは、都会の毒気にあてられたイナカ者が、しだいに身を持ち崩していく段階に似ている。要は、日本とドイツとは、ともに美酒を嗜好しながら、いつの間にか酒に呑まれてしまった二匹の大男なのだ。今は揃って首根っこを押さえつけられており、いわば引っ込み思案の最中なのだ。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　こんな奇妙な国二つだが、ただの酔っぱらいではなく、それぞれに元天才的道徳家の酔っぱらいだった。要は、この世に生まれ落ちるのが早すぎたために、友を待ちくたびれ、すっかり腐ってしまったのである。日本は江戸時代において、すでに内なる近代を経験しており、その独自の精神的合理性が、後にアジア諸国に住む人々の精神に強い影響を与え、独立に奔走せしめた。ドイツはさらに凄まじく、他に先んじて欧州近代精神の礎石「プロテスタンティズム」を発し、大がかりに培養、イギリスのピューリタン、産業革命、アメリカ革命、フランス革命に極めて濃厚な精神的影響を与えた。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　が、いずれも、自身は壊滅的な打撃を受け、その後虚脱する。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　ドイツなどは世界に先駆けて今日に通じる意味での「市民」の粗型を生み出しながら、その「市民」自身が阿鼻叫喚の大暴動を引き起こしたために、かえって諸侯による独善的な割拠が正当化される事態を招き、野放図な宗教封建による相克が、ついには30年もの長きにわたる戦乱状態を引き起こし、国土と社会は恐るべき荒廃をみた。一方、「ドイツ市民の流血」をもって購った近代への切符は、ドイツ自身よりも、むしろ周辺各国に受け継がれた。各国が、個人の独立を手に、次から次へと近代化を果たしていく中、当の卸元・ドイツは、その後も長く中世を内に蔵した。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;そのドイツは現在、200年の時を超え、アメリカ、中国、日本に次ぐ世界第四の実力を擁する大国である。要するに実力のわりにパッとしないわけだが、ひるがえって、現在世界第三の実力を誇るわが日本はどうだろうか？&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;小生は、こちらの方が、より重症の虚脱患者だ、と嘆じる者である。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/2427495263565810554-8739755856084921998?l=kinnynews.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='replies' type='application/atom+xml' href='http://kinnynews.blogspot.com/feeds/8739755856084921998/comments/default' title='コメントの投稿'/><link rel='replies' type='text/html' href='http://kinnynews.blogspot.com/2011/10/blog-post_06.html#comment-form' title='2 件のコメント'/><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/2427495263565810554/posts/default/8739755856084921998'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/2427495263565810554/posts/default/8739755856084921998'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://kinnynews.blogspot.com/2011/10/blog-post_06.html' title='日本の原則（２）ドイツと近代'/><author><name>kinny Halentino</name><uri>http://www.blogger.com/profile/14683346301918691511</uri><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='32' height='25' src='http://1.bp.blogspot.com/-Am7xEkC0nk0/TnrQ5N4sUII/AAAAAAAAAAc/F917vsp1gAY/s220/IMGP0018_ss.JPG'/></author><thr:total>2</thr:total></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-2427495263565810554.post-8090250425376359320</id><published>2011-10-04T14:40:00.000+09:00</published><updated>2011-10-04T14:44:50.201+09:00</updated><category scheme='http://www.blogger.com/atom/ns#' term='日本史'/><category scheme='http://www.blogger.com/atom/ns#' term='政治家'/><category scheme='http://www.blogger.com/atom/ns#' term='攘夷'/><category scheme='http://www.blogger.com/atom/ns#' term='幕末'/><category scheme='http://www.blogger.com/atom/ns#' term='思想'/><category scheme='http://www.blogger.com/atom/ns#' term='革命'/><category scheme='http://www.blogger.com/atom/ns#' term='日本の偉人'/><category scheme='http://www.blogger.com/atom/ns#' term='哲学'/><category scheme='http://www.blogger.com/atom/ns#' term='政治'/><title type='text'>日本の原則（１）藤田東湖</title><content type='html'>　安政地震は数度にわたって日本の太平洋ベルト地帯を襲い、数万を数える死者を出したと言われる。そのうち数千の人命を奪った江戸地震こそが、維新後の日本のありかたを根本から変えてしまう一撃になった。筆者の考えでは、江戸城が崩れたからでもなければ、人心が不安に陥ったからでもない。それら数千の死者のうちの一人として、藤田東湖があったからだ。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　藤田東湖、水戸のひとである。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　大学者・藤田幽谷の息子であり、幕末を開場した巨人であり、雷電のような気迫の人であり、峡谷をゆく急流のような詩情の人であり、険山に走る一筋の尾根のような忠義の人であった。人を畏れさせ、戦慄させ、しかし激しく愛する人だった。回天の大業を興した主立つ者はことごとに彼の門を叩き、諸国に遊んだ。宮部鼎蔵、吉田松陰、真木和泉、西郷隆盛、また橋本左内を媒介として巨人・横井小楠、梅田雲浜など、どれをとっても一通りではなく、藤田に共鳴する人物の幅を考えた場合、後世の一部が言うような形而上の徒であったと考えるのは難しく、やはり大いなる熱情家であり、経綸の人というよりは、無二の絶倫であったと考える他ない。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　筆者は、水戸という回天の主役が、成業の前夜、にわかにその座から退かなければならなくなった遠因を、藤田一個の死に求めることができるのではないか、とさえ思っている。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　長州の桂小五郎も大いなる故人を偲んだのか、後に東湖の子・小四郎を見て懐かしみ、これに軍資金を渡してともに事を図ったが、やはり構想力、決断力、重量、いずれをとっても、偉大なる父に遠く及んでいなかったというべきであろう。&lt;br /&gt;　あるいは本来であれば、先述した他国の人材の先頭を切るべき人物として、元幕府官僚ながら、高名な大学者でもあった大塩平八郎を挙げるべきであったかも知れない。反乱の挙に出る際、大塩はその旨を知らせるべく密使を放ったのだが、その宛先はなんと水戸の烈公だった。&lt;br /&gt;　が、同志への密使はあえなく熱海で頓死し、大塩の挙を遅れて知った烈公は、そのあるべき密書の探索方を後に藤田東湖に命じている。&lt;br /&gt;　何も知らない人物が、幕府に対する反乱の挙を知らせる密書の調査を命じられるようなことがあるだろうか？往時の大塩と烈公が、ともに幕政の大改革の断行を主唱する立場にあったことは周知だったが、事が反乱ともなれば、話はまったく別の次元となる。&lt;br /&gt;　すなわち藤田は、この挙あることを知っていたか、もしくはクーデター計画の主要な人物の一人だったのではないか。いやあるいは、後々世にとどろく水戸藩の異常な狂騒を考えた場合、まさに後の勤王派の首魁・藤田こそが台本の書き手その人だったのではないか、とさえ思えてくる。&lt;br /&gt;　である、と仮定した場合、藤田とはまさに、天下相手の大謀略をなしうる格別の胆力を備えた異常人だったといえるだろう。もし彼が水戸にありさえすれば、後の筑波山挙兵などありえず、まして彼らの自滅的最後など、起こりようもなかったのではないか。&lt;br /&gt;　ともあれ大阪の乱の首謀者・大塩平八郎は高名な陽明学の徒であった。&lt;br /&gt;　大学者をつかまえて「徒であった」とはおかしな言い方だが、陽明学とは、多分にそのような趣がある。大塩は事を為すにあたって、みずからが思うところに基づいて行動する「知行合一」を貫いた。まず自分が暴発し、死ぬ、というわけだ。この激しさは、陽明学の神髄のように言われるが、後に水戸が起こした騒乱の多くが、まるで平仄を合わせるようにして、彼らの先人ともいうべき大塩と同じ傾向を保っている。&lt;br /&gt;　後の有名な桜田門外の変では、薩摩の同志に&lt;br /&gt;　「まず自分たち水戸者が死ぬ。その後、薩摩者は京都を占拠せよ」&lt;br /&gt;　との盟を約し、言葉どおり路傍に斃れた。&lt;br /&gt;　が、藩主が因循派に取って代わっていた薩摩では、この挙に応じることができず、薩摩側の同志であった有村雄助は藩によって死を命じられ、藩内の過激派は大いに鬱屈した。大塩の死を前に何もできなかった水戸藩の立場に、今後は薩摩が立たされた、というわけだ。&lt;br /&gt;　また他方、はるかに下った禁門の変では、長州が京都で敗退、潰走し、水戸の天狗党は宙に浮いた。一挙はあてをうしなってさまよい、幕府方に捕らえられ、虫のように殺された。&lt;br /&gt;　水戸の勤王派はここに壊滅し、藩を挙げてあたかも心停止したようになる。&lt;br /&gt;　禁門の変および長州征伐で多くの屍をさらした長州に比して、薩摩では、ほとんどの志士たちが生き残った。先に水戸の同志に死なれた彼らが、後に征韓論を発したのは、人間の集団が作り出す意思というものの扱いがたさを象徴しているように思えてならない。ともあれ、これなくして革命なく、これなくして反革命なし、ということであろう。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　藤田の最後は、あっけないながら、まさに大塩と指向を一にする死だった。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　冒頭で述べた大地震で家屋は半壊したものの、みな一度は無事であった。と、老いた母が、火鉢の火の始末を気にして、ふたたび危険な家に戻った。そこへ巨大な梁が落下、母を押し潰さんとした。身を案じ、母に付いていた藤田は、思いと行動が寸分の迷いなく同じだった。身を乗り出して自身を挟み込み、母を逃がした。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　大塩が見せた&lt;br /&gt;「天下のために、まず自分が死ぬ」&lt;br /&gt;　が、なぜ世を揺るがしたか。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　われわれが、母の危険を察知するや、否やもなくみずからの身命を投げ出した藤田の行為にこそ、心を突き動かされる民族だからである。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　女子供の腹にダイナマイトを巻き付けるテロリストにではなく。&lt;br /&gt;　インパールの山野に同胞を餓死させた高級官僚にではなく。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　ゆえに、たとえ過激という点で、あたかも地下の先人と共通しているように見えることがあったとしても、これらの連中が、これまで目的を達したことはけしてなかったし、これからも断じてない。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/2427495263565810554-8090250425376359320?l=kinnynews.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='replies' type='application/atom+xml' href='http://kinnynews.blogspot.com/feeds/8090250425376359320/comments/default' title='コメントの投稿'/><link rel='replies' type='text/html' href='http://kinnynews.blogspot.com/2011/10/blog-post_04.html#comment-form' title='2 件のコメント'/><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/2427495263565810554/posts/default/8090250425376359320'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/2427495263565810554/posts/default/8090250425376359320'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://kinnynews.blogspot.com/2011/10/blog-post_04.html' title='日本の原則（１）藤田東湖'/><author><name>kinny Halentino</name><uri>http://www.blogger.com/profile/14683346301918691511</uri><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='32' height='25' src='http://1.bp.blogspot.com/-Am7xEkC0nk0/TnrQ5N4sUII/AAAAAAAAAAc/F917vsp1gAY/s220/IMGP0018_ss.JPG'/></author><thr:total>2</thr:total></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-2427495263565810554.post-7483093854555493193</id><published>2011-10-03T14:51:00.000+09:00</published><updated>2011-10-03T20:56:43.575+09:00</updated><category scheme='http://www.blogger.com/atom/ns#' term='日本史'/><category scheme='http://www.blogger.com/atom/ns#' term='政治家'/><category scheme='http://www.blogger.com/atom/ns#' term='中国'/><category scheme='http://www.blogger.com/atom/ns#' term='小野妹子'/><category scheme='http://www.blogger.com/atom/ns#' term='外交'/><category scheme='http://www.blogger.com/atom/ns#' term='遣隋使'/><category scheme='http://www.blogger.com/atom/ns#' term='国際関係'/><category scheme='http://www.blogger.com/atom/ns#' term='政治'/><title type='text'>小野妹子と日本外交</title><content type='html'>　かつて天皇より、さまざまな思惑を含められ、隋に派遣された男があった。言うまでもない、小野妹子である。&lt;br /&gt;　他国の文明や原理に対する羨望と戦慄を極度に象徴した最初の人物といえよう。いわゆる大化の改新は、後年、この男の持ち帰った政治的興奮が夭折、リフレインすることで、玉突き状に、やや遅れた形でもたらされた。日本的ダイナミズムの型となる「国外と対峙する際の戦慄と熱狂」を原動力とした政治的変革の、いわば「原点」なのだ。&lt;br /&gt;　が、今回のテーマは大化の改新ではない。話を遣隋にもどす。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　先立って、大陸において「隋」という強力な中央集権国家が誕生した。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　日本ではこれに連絡、情報収集すべく、使徒を派遣する。いわゆる遣隋使だ。と、小野妹子は推古天皇の国書を煬帝にもたらし、これを激怒させた。&lt;br /&gt;　一つには、世界で唯一天地を同時に司祭する存在である皇帝と、あろうことか同列を名乗ったという点、さらには日の出る国から、日の没する国へ、などと、まるで生まれたばかりの隋の没落を願っているかのごとき文意だった点。煬帝が皇帝であることを認めない蛮が、何用で華にまかり越したか、というわけで、どうも日本側に、中国を挑発するか、あるいは牽制する意図があったように思えてならない。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　後世にあっては日本側の政治的無知を指摘する向きが多い。&lt;br /&gt;　が、中国の皇帝がどのような存在であるかを、当時の日本の政治がまるっきり知らなかったとは、どうにも考えにくい。夜郎自大というが、そもそも隋という強勢の国が興り、戦慄したからこそ、日本としても、彼との交渉を試みたのであって、何の予備知識もなく、終始受け身だった野郎の例とは根本が違うのだ。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　つまり推古天皇は意図的に煬帝を挑発したのではなかったか。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　なぜ小生がこんなことを書いているのかといえば、その後の展開が、別の時代における日本の対外交渉の例と、奇妙な符合を見せるからである。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　小野妹子は煬帝の返書を手に帰国したが、旅の途中でこれを紛失、ついに天皇に手渡すことがなかった。天皇は当然大激怒し、妹子を流罪に処した。が、一説には、これは妹子がわざとなくしたフリをしたのだ、とも言われている。つまり内容が煬帝の激怒をそのまま反映していて、これを持ち帰れば、間違いなく日中間は戦争になる。妹子がこれを恐れ、独自の判断で、なくしたことにしてしまった、というわけだ。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　この説の蓋然性は、後代の外交史を知る者なら、すぐに合点がいく。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　江戸期のこと、朝鮮通信史を介して日本は朝鮮半島と最小限の関係を保ったが、その窓口をつとめた対馬藩が、じつは代々、幕府と李氏双方の書簡を偽造していたことが後に発覚、担当していた家臣が幕府から処罰されるという事態になった。&lt;br /&gt;　それより以前も、秀吉の命を受けた小西行長が、明との戦争を避けようとして返書を偽造、やがて実態が明らかになるや、かえって秀吉を怒らせ、日中が泥沼の戦争に陥る、ということがあった。結果、豊臣政権は出兵を命じられた家臣群から秘かに疎まれ、秀吉の死後における豊臣家滅亡の一因ともなったし、疲弊した明は、その後女真族によって転覆され、異民族王朝の出現を許す元になった。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　小野妹子が、もし隠蔽に失敗していたら、やはり両国は同様の憂き目を見たのではなかったか（もっとも隋は、日本との摩擦がなくとも煬帝の一代で「没する国」となったが）。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　この場合、諸王のすすめ、とくに蘇我氏の強固な意思によって、天皇はみずからの権威を低下させることにもつながりかねない隋との交渉に踏み出した。もちろん内心はおもしろくない。そこで一計を案じ、わざと相手を不快にさせることで、隋との柵封関係（象徴的な臣従）を避けようとしたのではないか。さいわい日本は遠く離れた島国である。わざわざ軍を催して渡海することもあるまい、というわけだ。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　が、当の使者である小野妹子は帰路、同盟国の百済にあって、隋の脅威を、大いなる戦慄とともに了解したに違いない。&lt;br /&gt;　百済に隋が迫れば、諸王を中心とする日本の世論は間違いなく沸騰、国土も強度の戦慄にさらされることになろう。あるいは百済の諸臣が妹子に泣きついたのかも知れない。これをおもどしになってはなりません、と。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　いずれにせよ、&lt;br /&gt;「わが身を滅ぼしても、ここは天皇の意図をいったん封じ、混乱を回避すべき」&lt;br /&gt;と妹子が考えたとしても何ら不思議はない。すでに述べたように、はるか後世、同様の板挟みを演じさせられた人々が、悩みに悩み抜いたあげく、やはり同様にふるまったからである。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　わが国の国内世論とは、かほどまでに歴代の対外当事者たちから恐れられてきた。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　もちろん歴代の他の国々においても、同様の葛藤はあった。が、戦慄の振幅がここまでに到るというのは、やはり日本という国の特異性のひとつとして、数えおくべきであろう。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/2427495263565810554-7483093854555493193?l=kinnynews.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='replies' type='application/atom+xml' href='http://kinnynews.blogspot.com/feeds/7483093854555493193/comments/default' title='コメントの投稿'/><link rel='replies' type='text/html' href='http://kinnynews.blogspot.com/2011/10/blog-post_03.html#comment-form' title='0 件のコメント'/><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/2427495263565810554/posts/default/7483093854555493193'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/2427495263565810554/posts/default/7483093854555493193'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://kinnynews.blogspot.com/2011/10/blog-post_03.html' title='小野妹子と日本外交'/><author><name>kinny Halentino</name><uri>http://www.blogger.com/profile/14683346301918691511</uri><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='32' height='25' src='http://1.bp.blogspot.com/-Am7xEkC0nk0/TnrQ5N4sUII/AAAAAAAAAAc/F917vsp1gAY/s220/IMGP0018_ss.JPG'/></author><thr:total>0</thr:total></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-2427495263565810554.post-2857435647585697565</id><published>2011-10-02T16:21:00.000+09:00</published><updated>2011-10-03T11:49:32.368+09:00</updated><category scheme='http://www.blogger.com/atom/ns#' term='南洲翁'/><category scheme='http://www.blogger.com/atom/ns#' term='政治家'/><category scheme='http://www.blogger.com/atom/ns#' term='イデェ'/><category scheme='http://www.blogger.com/atom/ns#' term='ドストエフスキー'/><category scheme='http://www.blogger.com/atom/ns#' term='思想'/><category scheme='http://www.blogger.com/atom/ns#' term='大審問官'/><category scheme='http://www.blogger.com/atom/ns#' term='日本の偉人'/><category scheme='http://www.blogger.com/atom/ns#' term='哲学'/><category scheme='http://www.blogger.com/atom/ns#' term='西郷隆盛'/><category scheme='http://www.blogger.com/atom/ns#' term='ナポレオン'/><category scheme='http://www.blogger.com/atom/ns#' term='政治'/><category scheme='http://www.blogger.com/atom/ns#' term='世界史'/><title type='text'>南洲翁とナポレオン</title><content type='html'>　ナポレオンとは、誰もが知るフランスの英雄である。この英雄をもって、ロシアの文豪は「超人」とした。この場合における超人とは、天才的な頭脳を有するとか、人並み外れた体力の持ち主であるとかいった類ではない。全てを負うて立つ特別な人格、何ものにも束縛されない人格という意味である。&lt;br /&gt;　くだんの文豪は、かのナポレオンやラスコーリニコフとはかなり趣向が異なるものの、超人のとあるプロットを読者に提供したことがある。彼に名はない。が、大審問官、と呼ばれている。大審問官とは、イワン・カラマーゾフを作者とする戯曲の作中人物だ。ところで、イワン自体が文豪による小説の主人公の一人であるに過ぎないため、大審問官は、劇中劇の人物、ということになる。そんなとりとめない存在であるわりには、小生にとって、困ったことに、この大審問官は今なお生けるがごとくの光彩を放っている。超人的人物の特徴であろう、名さえ持たない架空の人物でありながら、まさしくナポレオンのような存在感の持ち主なのだ。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　大審問官は、異端審問を生業とする恐怖政治の象徴的法官である。民衆に対して生殺与奪の権を握り、人々はこれをただひたすらに畏れ、ひれ伏す。そんなある日、民衆の前に一人の放浪者が現れ、次々と奇跡を起こして歩く。これを見た大審問官は直感する。これは本物のキリストがやってきた、ということを。そこで彼は周囲に命じてこれを捕らえさせる。王国の秩序を守るため、王国の主たるべきキリストを殺してしまおうというのだ。&lt;br /&gt;　が、どういうわけか大審問官は暮夜、秘かに牢に赴いて、囚われの主をなじる。なぜ今ごろ現れたのだ。まったく救うに値しない人々のために、なぜ舞い戻った。お前は人々に自由を与えたが、その自由が、どれほど人々を苦しめたか、お前にはわからないのか？人々はお前のパンを欲したが、自由など、これっぽっちも欲していなかったのだ。人々は迷い、戸惑い、苦しんだ挙句、われわれにすがってきた。だからわれわれは彼らに掟と秩序とパンを与えてやった。天の国に入れない大多数の人々の幸福のために、われわれはすべての欺瞞と罪を背負ってやることに決めたのだ．．．しかし、大審問官は、やはりキリストを殺す決心がつかず、その場から秘かに立ち去ることを命じる。キリストは、大審問官に咎を与えるどころか、諭すこともなく、むしろ祝福のキスを与えて去ってゆく。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　この大審問官に、ナポレオン、あるいは織田信長ら、歴史上の超人的人格を重ねる人は多い。超人は英雄的自己の実現のためなら、悪魔のごとき所業もあえて行い、数々の欺瞞的行為に際してもたじろぐことはない。人々の運命を背負うということは、多かれ少なかれ、こうした超人性の発揮なくしては、いっさいが不能である。対岳公にせよ、南洲翁にせよ、英雄の作業とは、決断であり、非人間性の発揮である。当欄のテーマとして、小生はしばしば政治の要諦を述べてきた。どこにでもいい顔をするのが政治ではない、政治の本質とは、切ることである、と。この「切る」ことの実践と、「切る」痛みに耐えかねたことの両方で、南洲翁は、世に英雄視されながらも、同時にその徳を慕われた。&lt;br /&gt;　だが、政治家としての彼は、まさにその徳のために、「実現できなかった自己」を彷徨わせ、やり遺した仕事のために押しつぶされそうになりながら世を去ることになった。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　目の前の人を、人として見つめることが、政治家を不能にするのだ。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　もちろん英雄たれ、とは、小生は説かない。人類史上、希有なほどに争いのないこの時代に真の英雄は不要だ。が、いっさいの非人間性、超人性に耐えられない人格が政治を志すことは、今も変わらず人々にとって害であることは間違いない。果断なき者に、政治はおろか、およそ仕事というものができるはずなどない。要はその多寡の問題であり、絶無であっては話にならず、あとは時を得て行いうるかとどうかということに尽きる。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　が、真の英雄でない政治家、つまり現代における全ての政治家には、個人としての人格が別にある。&lt;br /&gt;　そのことをはるかに想うせつな、どうにも胸が締め付けられてしょうがない。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' 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/&gt;&lt;br /&gt;　誰々はこう言っていたはずである、確かこうした考えでいたはずだ、あれはこうするつもりだ、あのときみんなの前でこう約束したはずだ、きみはぼくにこう言ったじゃないか、そうしたことの一切が不能だ、と言っているのである。&lt;br /&gt;　正しい、正しくない、こうあるべき、本当のプロはこうだ．．．&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　これらはすべて冗談なのである。冗談がわからない人の事を子供という。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　「今から世にもめずらしい手品をお見せいたします」&lt;br /&gt;　二等大尉&lt;/pre&gt;&lt;pre wrap=""&gt;&amp;nbsp;&lt;/pre&gt;&lt;pre wrap=""&gt;&amp;nbsp;&lt;/pre&gt;&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/2427495263565810554-4877252656898962851?l=kinnynews.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='replies' type='application/atom+xml' href='http://kinnynews.blogspot.com/feeds/4877252656898962851/comments/default' title='コメントの投稿'/><link rel='replies' type='text/html' href='http://kinnynews.blogspot.com/2011/10/blog-post.html#comment-form' title='2 件のコメント'/><link rel='edit' type='application/atom+xml' 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scheme='http://www.blogger.com/atom/ns#' term='国際関係'/><category scheme='http://www.blogger.com/atom/ns#' term='自由'/><category scheme='http://www.blogger.com/atom/ns#' term='政治'/><category scheme='http://www.blogger.com/atom/ns#' term='世界史'/><title type='text'>政治的「自由」について</title><content type='html'>　往々にして「自由主義が」「自由世界が」「自由貿易主義が」とやる小生が言うのもなんだが、自由もまた、その響き高尚ではあるものの、冗談であることに変わりはない。よく「民族自決」「自由意志」といった言葉を耳にするが、まさに冗談の最たるものといえよう。われわれは、それぞれの事情を超越する際に、かほどに精神的な苦痛を要せざるをえない存在なのだ、ということを、ひとつ憶えておいてほしい。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　アメリカはかつて最強国イギリスと二度戦い、二度とも自らの血と肉で勝利をあがなった。主たる敵をナポレオン個人としたイギリスにとっての戦敗は、撤退であるに過ぎなかった。だが、アメリカにとっての戦勝は、その本土における首都さえ陥れられるほどに苛烈なものだった。有名な国歌は、戦火の中を潜り抜け、なお立っていた星条旗によってもたらされた。アメリカは、表面上は、母国イギリスより、その政治思想上の兄弟であるフランスと、身上である公正中立を、そして実際上は、自国の自立、自由を優先したのである（世に言う「自主独立」とは、そういうことを言うのであって、流血と餓死を覚悟しない「自主独立」なども、まさに冗談、いや冗談以前のタワゴトであるといえよう）。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　論理が、事情を超えたのだ。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　これを軽々に冗談呼ばわりすることはできない。アメリカにとっての「自立」「自由」は、国民の死をもってでも、あがなわなければならない、国家の行動原理そのものである、ということを、ゆめ忘れてはならない。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　さて、わが国における自由はどうか。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　これは残念ながら、与えられた自由に過ぎないのである。だからわが国における自由は冗談なのである。自由のために血を流す気もなければ、自由の司祭者であるアメリカに感謝することもできないのである。これは感謝しろ、という方が、ムリなのである。われわれはわれわれ自身の事情を超越できない。優越者から与えられた宝物は、結局宝物ではなく、何やらキラキラ光ってはいるものの、単に食べられないものであるに過ぎないのだ。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　そしてわれわれは知るべきである。韓国が、けしてわれわれに感謝することなどない、ということを。彼らに対して、われわれは先駆者、優越者として臨んだ。彼らに「われわれがもたらした近代化に感謝しろ」ということの不能がわかるだろうか。冗談がわかるだろうか。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　だが、である。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　われわれは、そろそろ自身の事情を超えなければならない。それは聖書にある「ブタに真珠」を超えなければならない、ということだ。われわれはブタではない。だから、事情を超えるのだ。われわれが理想とするものが、たとえ今は冗談であるに過ぎないにしても、自身の軌跡をたどり、悲痛を知り、おのれを強く意識することによって、われわれは国家として、ヒトたりえるであろう。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　それは自由であってもよい。または仁であってもよい。独自のものでもかまわない。&lt;br /&gt;　極論する。要は、与えられたものではなく、みずから模索し、手に入れ、命を賭して絶やさぬよう働きかけうるものであれば何でもよいのである。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　われわれは、冗談を、われわれ自身の力で真珠に変えるのだ。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/2427495263565810554-5487091720735270221?l=kinnynews.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='replies' type='application/atom+xml' href='http://kinnynews.blogspot.com/feeds/5487091720735270221/comments/default' title='コメントの投稿'/><link rel='replies' type='text/html' href='http://kinnynews.blogspot.com/2011/09/blog-post_30.html#comment-form' title='8 件のコメント'/><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/2427495263565810554/posts/default/5487091720735270221'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/2427495263565810554/posts/default/5487091720735270221'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://kinnynews.blogspot.com/2011/09/blog-post_30.html' title='政治的「自由」について'/><author><name>kinny Halentino</name><uri>http://www.blogger.com/profile/14683346301918691511</uri><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='32' height='25' src='http://1.bp.blogspot.com/-Am7xEkC0nk0/TnrQ5N4sUII/AAAAAAAAAAc/F917vsp1gAY/s220/IMGP0018_ss.JPG'/></author><thr:total>8</thr:total></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-2427495263565810554.post-1861345799209672807</id><published>2011-09-29T21:33:00.000+09:00</published><updated>2011-09-29T21:33:55.240+09:00</updated><category scheme='http://www.blogger.com/atom/ns#' term='エチオピア'/><category scheme='http://www.blogger.com/atom/ns#' term='革命'/><category scheme='http://www.blogger.com/atom/ns#' term='世界史'/><title type='text'>エチオピアの革命について</title><content type='html'>　エチオピアの社会主義革命は、当時の左傾マスコミ人を喜ばせ、走る哲学者などと呼ばれたアベベを墓穴から引っぱり出してはその哲学的な風貌と後の革命とをダブらせて語る愚を演じさせるなどした。&lt;br /&gt;　革命前は長引く戦乱と飢饉によって餓死者10万人とも言われていた。社会主義独裁政権の登場によって、別の10万人は餓死せずに済んだが、今度は60万人の国民が政治によって粛清された。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　東アフリカの代表的国家であるエチオピアの建国は紀元前にさかのぼる。後に有名なソロモン朝が興るなど強勢を誇ったが、諸侯の相克が深刻化し、17～18世紀に向け、その国威はぼろぎれのように衰えていく。多様な民族と豊かな穀倉を抱える王侯社会の例に漏れず、ここでも群雄の割拠が見られ、相互の攻伐と膠着を経て、末期には血で血を洗う民族間闘争の様相を呈した。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　農民戦争によって正当化されたドイツ諸侯による独善的な割拠は、はるか三十年戦争をもって、社会を疲弊の極に追い込んだあげく破綻した。ドイツでは、いわば戦争のための装置そのものが破綻することによって終息をみたわけだが、エチオピアでは、無料の太陽と、豊かな国土と、諸侯による無制限な支配の原理と、際限ない民族の自尊心が、とうてい北辺の常識では考えられないほどの長期に渡る抗争を可能にした。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　兵器が近代化し、ラクダがジープに、剣が自動小銃に変わっても、彼らは相互に殺し合う行為をやめなかった。疲弊が極に達すれば止み、わずかでも回復すればまた戦った。アジアやヨーロッパでは、社会が安定しなければ、当然のように人口が減少、長期的な戦争は継続不能に陥った。が、豊かな国土と無限の太陽を持つエチオピアでは、深刻な内戦下にあっても、人口は順調に増え続け、ついには人が増える限りは互いを殺し合う、という、「アフリカの悲劇」を象徴する地獄絵図を現出した。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　人類愛を、人道主義を、口にすることはたやすい。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　なるほど不作が来るなり飢える北朝鮮なら、恐怖政治さえ終われば、人々の悲劇も終息するのであろう。だがエチオピアでは、そうした安易な観測が成立し得ないことを知るべきである。彼らは他の地域の人々と異なり、機械力を背景にしたヨーロッパの軍隊に対してさえ、弓矢刀槍をもって戦いを挑み続け、しばしばこれを破ったような敢闘精神の持ち主である。これらが近代的に兵装し相互に戦いを続ける以上、周囲が生半可な覚悟で手出しすることは一切無用である。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;表向きは革命であったり、内戦であったり、貧困であったり、悲劇であったりする。&lt;br /&gt;だが実際のアフリカの問題は、そう「簡単」でもないようだ。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/2427495263565810554-1861345799209672807?l=kinnynews.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='replies' type='application/atom+xml' href='http://kinnynews.blogspot.com/feeds/1861345799209672807/comments/default' title='コメントの投稿'/><link rel='replies' type='text/html' href='http://kinnynews.blogspot.com/2011/09/blog-post_575.html#comment-form' title='0 件のコメント'/><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/2427495263565810554/posts/default/1861345799209672807'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/2427495263565810554/posts/default/1861345799209672807'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://kinnynews.blogspot.com/2011/09/blog-post_575.html' title='エチオピアの革命について'/><author><name>kinny Halentino</name><uri>http://www.blogger.com/profile/14683346301918691511</uri><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='32' height='25' src='http://1.bp.blogspot.com/-Am7xEkC0nk0/TnrQ5N4sUII/AAAAAAAAAAc/F917vsp1gAY/s220/IMGP0018_ss.JPG'/></author><thr:total>0</thr:total></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-2427495263565810554.post-5920633083066828334</id><published>2011-09-29T21:05:00.000+09:00</published><updated>2011-09-29T21:21:38.446+09:00</updated><category scheme='http://www.blogger.com/atom/ns#' term='日本史'/><category scheme='http://www.blogger.com/atom/ns#' term='攘夷'/><category scheme='http://www.blogger.com/atom/ns#' term='幕末'/><category scheme='http://www.blogger.com/atom/ns#' term='生麦事件'/><category scheme='http://www.blogger.com/atom/ns#' term='世界史'/><title type='text'>攘夷とその後の世界</title><content type='html'>　あえて言う必要もなかろう、薩英戦争のきっかけとなった生麦事件は、イギリス人商人ら数人が、日本の法も常識もわきまえないまま大名行列に踏み込んで混乱させ、ついに供回りの侍に斬り払われた事件である。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　重要なのは、当の大名は薩摩藩島津家であったが、他の雄藩の行列で同じことが起こっても、その時の状況や勢いによっては、同様に斬られた可能性が高い、ということだ。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　当時の雄藩の武士たちは、日頃から戦慄していた。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　いつ自藩が外国と事を構えることになるか、いつ他の雄藩が幕府と激突するか、そうした不安、焦燥、一部では熱望が、当時の武士たちの日誌類において数多く確認できる。後世の大方の見方は、あれは尚武の薩摩藩だったから起こりえたことで、他藩ではとうてい考えられない、というものだが、小生はそうした考えを一蹴したい。&lt;br /&gt;　当時、一部の慷慨の徒は、すでに藩士というより、志士であった。&lt;br /&gt;　みずからの世界観、もしくは当時の常識であった正邪の感覚において、邪と判断するなり、跳躍し、これを両断する危険のある者は、数の多寡こそあれ、どの雄藩にも確かに存在した。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　イギリス人が斬られたのは、必然である。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　日本人のおとなしさと、唐突な激しさは、戦国の頃より、しばしば他国人を戸惑わせてきた。が、これは武士という、死ぬことをもって家業となす人々の習性と、儒教によって高度に教養化された精神が、一人格に収まり、時に臨んで瞬時に応答する様を目の当たりにした外国人達が、一時に戦慄し、混乱したのであって、けして総体としての武士を憎悪したり、軽蔑したりした、ということではなかった。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　人を殺す行為そのものが忌まれるのは、いつの世であれ、およそ当然のことであろう。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　だが高所から見たとき、当時の武士としては、あれしかなかったのか、とも思う。&lt;br /&gt;　アメリカ人やイギリス人に劣らず、どうやら日本人も危険らしい、と思わせたことは、その後の恐るべき国益の毀損さえ帳消しにするほどの効力を後の明治にもたらしたからだ。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　数え切れない数の外国人が通りで斬られ、武士も互いに殺し合ったが、それらのひとつひとつが、けしてムダではなかった。なぜなら当時、そして後に日本が迎えることになる明治という時代は、世界においては、まさに権謀術数、武力が限りなく国力にイコールな時代だったからだ。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　そして現代。内実ないままに攘夷を叫ぶイカれた人々が、今なお国内にいる。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　当時の攘夷には意味があったが、現代の攘夷には、むろん一円の価値もない。&lt;br /&gt;第二次大戦後、世界は、秩序の原則を大転換をさせた。すなわち、経済力が限りなく国力にイコールとなる時代への転換だ。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　それに気付かなかったから、旧ソ連は亡国したのだ。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;wbr&gt;&lt;/wbr&gt;&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/2427495263565810554-5920633083066828334?l=kinnynews.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='replies' type='application/atom+xml' href='http://kinnynews.blogspot.com/feeds/5920633083066828334/comments/default' title='コメントの投稿'/><link rel='replies' type='text/html' href='http://kinnynews.blogspot.com/2011/09/blog-post_29.html#comment-form' title='2 件のコメント'/><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/2427495263565810554/posts/default/5920633083066828334'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/2427495263565810554/posts/default/5920633083066828334'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://kinnynews.blogspot.com/2011/09/blog-post_29.html' title='攘夷とその後の世界'/><author><name>kinny Halentino</name><uri>http://www.blogger.com/profile/14683346301918691511</uri><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='32' height='25' src='http://1.bp.blogspot.com/-Am7xEkC0nk0/TnrQ5N4sUII/AAAAAAAAAAc/F917vsp1gAY/s220/IMGP0018_ss.JPG'/></author><thr:total>2</thr:total></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-2427495263565810554.post-2447089601646752320</id><published>2011-09-28T15:03:00.000+09:00</published><updated>2011-09-28T15:03:53.200+09:00</updated><category scheme='http://www.blogger.com/atom/ns#' term='日本史'/><category scheme='http://www.blogger.com/atom/ns#' term='乃木希典'/><category scheme='http://www.blogger.com/atom/ns#' term='司馬遼太郎'/><title type='text'>司馬遼太郎の「乃木希典」</title><content type='html'>　日本型の統率の原型をなしたという意味において、作家の故・司馬遼太郎さんは、いわゆる「乃木大将」を再三にわたって批判している。もちろん全責任において乃木一人に帰しているわけではないし、司馬さん自身、杓子定規に階級の序列を振り回して乃木を断罪しているわけではない。彼の小説を追えばすぐにわかることだが、乃木にまつわる現象面を克明に追うことで、「乃木」がまつり上げられていく様がよく理解できるようになっている。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　ただ、ある一点において、小生は泉下の司馬さんに言っておかなければならないと感じている。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　乃木希典という人物が多分に無自覚であったにせよ、乃木や、指揮下の無能参謀を叩き過ぎることは、かえって日本の病根「空気至上主義」を延命させることになると信じているからである。&lt;br /&gt;小生は「史実に即して」国民的大作家を批判する、といった行為をバカげたものとみなしているし、そうしたガクセー議論を評価する者でもない。だがテーマにおいて、その意図するところと、効果が合致しない点については、あえて批判することこそ、敬意の表明であると考えている。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　たとえば戦前の官僚が、組織内部の空気にのっとり、誰が下したともいえない判断の連続をもって日本に亡国をもたらした例の過程は、司馬さんも一部で指摘されている通り、ぴったりその原型を乃木軍指導部に求めることができる。であるならば、なぜその卑劣の過程を、その重大性に応じた質量をもって批判しなかったか。なぜもっとも呪わしい「誰が下したとも言えない」という部分のほぼすべてについて、乃木に背負わせたか。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　たしかに一時代が去った後の「日本人集団」を断罪することの難しさは、小生も重々承知している。&lt;br /&gt;　だが、あえてそこに踏み込まない限り、われわれは同じ愚劣をくり返すだろう。要は、乃木一人に過半の責を負わせるには限界があるし、効果的ではない、ということだ。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　われわれは、日本における知の責務として、&lt;br /&gt;「空気至上主義」&lt;br /&gt;　を意識的に抽象化していくべきなのだ。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　第二次大戦後、往時を指導した官僚たちは口々にこう証言した。&lt;br /&gt;「あのときは、そういう雰囲気だった」&lt;br /&gt;「そういう流れができていた」&lt;br /&gt;「抗えない空気だった」&lt;br /&gt;　そうした無責任な無判断者たちの醸す空気に惑わされ、それを合理的な判断にも勝ると受け止めるような「われわれ日本人の在り方」こそ、根本的に問われなければならないのだ。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　少なくとも後世のわれわれが、さらなる発展のためになすべきは、過大な責を乃木に負わせることではない。&lt;br /&gt;　もちろん乃木に対する批判のいっさいを無価値だと言うつもりはない。だが、乃木批判を強調するあまり、より重要な「われわれ自身の問題」を見逃せば、かえって後世を誤ることになると小生は確信するのである。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/2427495263565810554-2447089601646752320?l=kinnynews.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='replies' type='application/atom+xml' href='http://kinnynews.blogspot.com/feeds/2447089601646752320/comments/default' title='コメントの投稿'/><link rel='replies' type='text/html' href='http://kinnynews.blogspot.com/2011/09/blog-post_28.html#comment-form' title='8 件のコメント'/><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/2427495263565810554/posts/default/2447089601646752320'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/2427495263565810554/posts/default/2447089601646752320'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://kinnynews.blogspot.com/2011/09/blog-post_28.html' title='司馬遼太郎の「乃木希典」'/><author><name>kinny Halentino</name><uri>http://www.blogger.com/profile/14683346301918691511</uri><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='32' height='25' src='http://1.bp.blogspot.com/-Am7xEkC0nk0/TnrQ5N4sUII/AAAAAAAAAAc/F917vsp1gAY/s220/IMGP0018_ss.JPG'/></author><thr:total>8</thr:total></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-2427495263565810554.post-6988830885534722593</id><published>2011-09-26T12:15:00.000+09:00</published><updated>2011-09-26T12:15:15.427+09:00</updated><category scheme='http://www.blogger.com/atom/ns#' term='中国'/><category scheme='http://www.blogger.com/atom/ns#' term='世界史'/><title type='text'>絶倫列伝（６）</title><content type='html'>&lt;br /&gt;&lt;div style="margin-bottom: 0cm;"&gt;&lt;span style="font-size: medium;"&gt;　絶倫とは、すなわち異能の人である。&lt;/span&gt;&lt;/div&gt;&lt;div style="margin-bottom: 0cm;"&gt;&lt;span style="font-size: medium;"&gt;　主に欲望の多寡において凡人と趣を異にしている。そうした意味においては、長信候嫪毒より、彼を引き立てた仲父呂不韋こそ真の絶倫といえた。ただ后や嫪毒より二、三十年ほど早く生まれたために、精力という特定分野における絶倫のみ少々早めに店じまいする他なかったのだ。&lt;/span&gt;&lt;/div&gt;&lt;div style="margin-bottom: 0cm;"&gt;&lt;br /&gt;&lt;/div&gt;&lt;div style="margin-bottom: 0cm;"&gt;&lt;span style="font-size: medium;"&gt;　秦に格別の富強を備えさせた絶倫たちは世を去ったが、彼らがもたらした富強そのものは容易に秦を去らなかった。秦は絶倫による頭脳とバイタリティ、飽くなき欲望力によって最強無比の軍団を築き、ほどなく天下を統一する。秦に貢献した絶倫は呂不韋や嫪毒に留まらない。韓非子といい李斯といい、勃興期の帝国を築き支えた人々のいちいちが絶倫の人だったことを思えば、絶倫をよく用い、こよなく愛でる鷹揚さと寛容が、大陸制覇の原動力となったことだけは間違いない。絶倫に嫉妬し、これを排除するような料簡の狭い集団が、拡大と発展に浴することなどありえないのである。このことは、嫪毒の乱後、秦の宮中に台頭し一時嬴政を迷わせたいわゆる「逐客論」を見事な論旨で粉砕した李斯が、来るべき秦の統一により、早くも世の真相として証明している。不能な減点主義の自縄自縛にあえぐ現代日本は、いまだ紀元前の一法家論者の聡明にさえ学び得ていない、ということなのである。&lt;/span&gt;&lt;/div&gt;&lt;div style="margin-bottom: 0cm;"&gt;&lt;br /&gt;&lt;/div&gt;&lt;div style="margin-bottom: 0cm;"&gt;&lt;span style="font-size: medium;"&gt;　そもそも史伝に拠るならば、嬴政自身が異能の血統といえよう。貞操と謹慎を過剰に尊び、逐客（外部者や異能人を排除すること）を主張する減点指向の偏狭な人々が主導した時代、文明は萎縮し、世は大いに低迷した。人口が減少し産業は停滞、文化は閉塞し人心は倦んだが、果たして、こうした長期低落傾向を反省する機会や発想が、これまでこの世に存在したためしがあろうか？&lt;/span&gt;&lt;/div&gt;&lt;div style="margin-bottom: 0cm;"&gt;&lt;span style="font-size: medium;"&gt;　答えはノーである。&lt;/span&gt;&lt;/div&gt;&lt;div style="margin-bottom: 0cm;"&gt;&lt;span style="font-size: medium;"&gt;　他人を嫉妬し、減点指向を横行させる共感重視の小心不能な全体主義者たちが、国を隆盛させたことは未だかつてない。が、なぜかこうした群れたがるメダカに限り、自責の念に囚われることなど一向にない。答えはわりあい簡単で、「自分たちは誰よりも身を慎んでいる」と意識しているからだ。「やったことの罪」を意識するのは容易いが、「やらなかったことの罪」を意識するのは難しい。人は元来、自分自身を少しは優れた存在であると信じたいのである。&lt;/span&gt;&lt;/div&gt;&lt;div lang="ja-JP" style="margin-bottom: 0cm;"&gt;&lt;span style="font-size: medium;"&gt;&lt;br /&gt;&lt;/span&gt;&lt;/div&gt;&lt;div style="margin-bottom: 0cm;"&gt;&lt;span style="font-size: medium;"&gt;　これが減点主義のタチの悪さ、根の深さである。減点主義は臆病者一人ひとりの無自覚な自己愛に依拠することで社会を倦ませており、社会から反省を促される機会がほとんどない。「共感」という正当な理由なき無数の正義を背景にしているため、批判者が存在しえず、批判者なければ、すなわち反省もない。残念ながら、それが世の常というものなのだ。&lt;/span&gt;&lt;/div&gt;&lt;div style="margin-bottom: 0cm;"&gt;&lt;span style="font-size: medium;"&gt;　一方、異能の持ち主が、これら不能のメダカ群に抗議の声を上げることもまた、ほとんどない。みずからの意思を堅持し、志を逞しくする者は元来、意思的な存在のみを人とみなして尊重し、あるいは議論、争闘する。まして「絶倫」は、群れ集まって一つ事を言い募る没個性的な不能連中になど、毛の先ほどの価値も見出していないのである。人に咎められるのであれば抗議もしようが、犬に吠えられて怒るバカもない。何とかしなくては、と、途方に暮れることこそあるにせよ、マジメに相手をするにはバカバカし過ぎるのだ。&lt;/span&gt;&lt;/div&gt;&lt;div style="margin-bottom: 0cm;"&gt;&lt;br /&gt;&lt;/div&gt;&lt;div style="margin-bottom: 0cm;"&gt;&lt;span style="font-size: medium;"&gt;　これこそ「偏狭なメダカ集団による魔女狩り」の本質的原理といってもよい。およそ国家や集団が一定の周期で盛衰をくり返すのは、そこに生きる人々の意思の総和が、絶倫を称揚・排斥する傾向を、社会全体の停滞・発展する傾向に応じて示すからである。貧しければ食うためにやむなく絶倫を尊んで富裕にあやかることを指向するが、ひとたび上向けば、自尊心をなだめるために絶倫を卑しんで排斥し凡人向きな清貧を指向する。アメリカの共和、民主の両党による政権交代も、国民の性欲の干満に応じてくり返されてきた。絶倫にインポの群れが頼ったり、あるいは嫉妬したりする度ごとに、アメリカの顔が入れ替わる。トコトン経済が悪くなれば、インポ連中も先のない自慰を中断し、黙ってレーガンという絶倫に従うようになるのだ。要するに民主党支持者というのは、左翼ならぬ寡欲、進歩派ならぬインポ派、ということなのである。&lt;/span&gt;&lt;/div&gt;&lt;div style="margin-bottom: 0cm;"&gt;&lt;span style="font-size: medium;"&gt;　極論すれば、圧倒的多数のインポの群れが、少数の絶倫を歓迎するかしないかによって、固有社会の盛衰を決めているといってもよかろう。要するに絶倫の興亡とは、近未来の盛衰指向を示すバロメーターなのだ。&lt;/span&gt;&lt;/div&gt;&lt;div style="margin-bottom: 0cm;"&gt;&lt;br /&gt;&lt;/div&gt;&lt;div style="margin-bottom: 0cm;"&gt;&lt;span style="font-size: medium;"&gt;　過剰な長期インポ傾向は、国を衰退させ、やがては滅びへと導く。森・小泉・安倍と、三代にわたって日本を成長させた「実行する政治」も、「戦後最長の好景気」として報じられるや、嫉妬する矮小者の減点指向によって前途を断たれた。&lt;/span&gt;&lt;/div&gt;&lt;div style="margin-bottom: 0cm;"&gt;&lt;span style="font-size: medium;"&gt;　日本はまさに非寛容な共感至上主義による謹慎第一の政治指向によって、国ぐるみ不能化しつつある。わたしたちは今こそ、嫉妬深い群れたがりインポどもの狭量を蹴散らし、国を挙げて絶倫を称揚、「何事も実行・推進するオトコ」の前途を開くことによって、日本全体を大成長へと導くべきではないだろうか。&lt;/span&gt;&lt;/div&gt;&lt;div style="margin-bottom: 0cm;"&gt;&lt;br /&gt;&lt;/div&gt;&lt;div style="margin-bottom: 0cm;"&gt;&lt;span style="font-size: medium;"&gt;　異能者という存在群における、もっともあからさまな表現こそ「絶倫」である。極彩色に彩られがちな彼らの運命と孤独に思いを馳せ、親しむことで、わたしたちの社会が、今日の、世に大いに長じたる者の活躍を、昨日より、ほんの少しでも歓迎できるようになるならば、さいわいである。&lt;/span&gt;&lt;/div&gt;&lt;div style="margin-bottom: 0cm;"&gt;&lt;span style="font-size: medium;"&gt;（了） &lt;/span&gt;&lt;/div&gt;&lt;div style="margin-bottom: 0cm;"&gt;&lt;br /&gt;&lt;/div&gt;&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/2427495263565810554-6988830885534722593?l=kinnynews.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='replies' type='application/atom+xml' href='http://kinnynews.blogspot.com/feeds/6988830885534722593/comments/default' title='コメントの投稿'/><link rel='replies' type='text/html' href='http://kinnynews.blogspot.com/2011/09/blog-post_7927.html#comment-form' title='4 件のコメント'/><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/2427495263565810554/posts/default/6988830885534722593'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/2427495263565810554/posts/default/6988830885534722593'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://kinnynews.blogspot.com/2011/09/blog-post_7927.html' title='絶倫列伝（６）'/><author><name>kinny Halentino</name><uri>http://www.blogger.com/profile/14683346301918691511</uri><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='32' height='25' src='http://1.bp.blogspot.com/-Am7xEkC0nk0/TnrQ5N4sUII/AAAAAAAAAAc/F917vsp1gAY/s220/IMGP0018_ss.JPG'/></author><thr:total>4</thr:total></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-2427495263565810554.post-875425987846786340</id><published>2011-09-26T12:09:00.000+09:00</published><updated>2011-09-26T12:09:01.419+09:00</updated><category scheme='http://www.blogger.com/atom/ns#' term='中国'/><category scheme='http://www.blogger.com/atom/ns#' term='世界史'/><title type='text'>絶倫列伝（５）</title><content type='html'>&lt;br /&gt;&lt;div style="margin-bottom: 0cm;"&gt;&lt;span style="font-size: medium;"&gt;　元凶とされた呂不韋は、かねてより名声天下に鳴り響く巨人で、秦国隆盛の功績も絶大であったため、特に罪を減じられ、免職に留まった。が、嬴政にとってみれば、呂不韋の名声と功績こそ脅威である。まして凡夫どもにとっては、大いなる勢力を擁したまま関中にある呂不韋は不気味に過ぎ、まさしく恐怖の的そのものであった。いつ、くだんの画策が洩れ、個別に復讐されるかわかったものではない。俄然、機会ある毎に嬴政にくり返し言上する。&lt;/span&gt;&lt;/div&gt;&lt;div style="margin-bottom: 0cm;"&gt;&lt;span style="font-size: medium;"&gt;「かの呂不韋、野にあってなお声望高く、子飼いの将相、宮中に数多ございます。食客の横議かまびすしき邸地に内外の貴賤万来、途絶えるところを知りません。ひとたび叛旗翻れば、抑えることかないますかどうか…」&lt;/span&gt;&lt;/div&gt;&lt;div style="margin-bottom: 0cm;"&gt;&lt;span style="font-size: medium;"&gt;　周到な煽動工作によって複数の口を仮りたため、嬴政はこれを宮中の空気と見定め、ついに決断する。とはいえ、一度下した沙汰をわずか数年で軽々に撤回することなどできないため、手紙の体裁を採りつつ、重ねて呂不韋の不実と強欲を詰り、蜀への転出を迫ったのだ。もちろん、かっての呂不韋に対する処遇を思えば、これが最後通牒であり、事実上の追放宣告であることは明らかである。&lt;/span&gt;&lt;/div&gt;&lt;div style="margin-bottom: 0cm;"&gt;&lt;br /&gt;&lt;/div&gt;&lt;div style="margin-bottom: 0cm;"&gt;&lt;span style="font-size: medium;"&gt;　先王である荘襄王の在位は五年、齢わずか三十五で死を迎えている。また、先王の在世中も呂不韋はかっての愛人と密通を重ねていたとされ、確証こそないものの、嬴政は極めて高い確率で呂不韋の実子であった。少なくとも呂不韋自身は、史伝の示す真実通りに確信していたのではなかろうか。「わが子」から事実上の追放を告げられた「秘かなる父」は、これを辱めと受け止めたか、あるいは運命を儚んだか、仲父呂不韋、毒をあおって自害したのは紀元前二百三十五年のことである。&lt;/span&gt;&lt;/div&gt;&lt;div style="margin-bottom: 0cm;"&gt;&lt;br /&gt;&lt;/div&gt;&lt;div style="margin-bottom: 0cm;"&gt;&lt;span style="font-size: medium;"&gt;　凡夫どもも、さぞや胸をなでおろしたことであろう。これで復讐の魔手に怯えつつ眠れぬ夜を過ごすこともない。もっとも、地下の呂不韋にしてみれば笑止という他ないであろう。彼こそ絶倫の中の絶倫であり、蓋世の大巨人である。天下無双の富強を誇る秦国は、呂氏春秋に並ぶ、いわば丹精込めた呂氏の一大作品であった。その気なら宮廷など、とうの昔に一ひねりというものであった。まして凡夫の策動など、復讐どころか、近ごろやけに増えた小用の回数ほどにも気に留めたことはなかった。&lt;/span&gt;&lt;/div&gt;&lt;div style="margin-bottom: 0cm;"&gt;&lt;span style="font-size: medium;"&gt;　そのあたりが凡夫の凡夫たるゆえんであろう。凡夫とは結局のところ、世にある誰しもが、自分同様の矮小と信じて疑わないものなのである。&lt;/span&gt;&lt;/div&gt;&lt;div style="margin-bottom: 0cm;"&gt;&lt;br /&gt;&lt;/div&gt;&lt;div style="margin-bottom: 0cm;"&gt;&lt;span style="font-size: medium;"&gt;　さて、二重三重に真の元凶である呂不韋の元愛人、すなわち嬴政の母后だが、なぜか強いて誅求科刑されるところがなかった。嬴政にとって唯一の公の肉親ということもあろう。が、ここに後世は、パンドラの箱を開けてしまった凡夫たる国人派の思慕を見出すことができるのである。要するに男など、最後の最後まで滑稽の性という他ない。&lt;/span&gt;&lt;/div&gt;&lt;div style="margin-bottom: 0cm;"&gt;&lt;span style="font-size: medium;"&gt;（続く） &lt;/span&gt;&lt;/div&gt;&lt;div style="margin-bottom: 0cm;"&gt;&lt;br /&gt;&lt;/div&gt;&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/2427495263565810554-875425987846786340?l=kinnynews.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='replies' type='application/atom+xml' href='http://kinnynews.blogspot.com/feeds/875425987846786340/comments/default' title='コメントの投稿'/><link rel='replies' type='text/html' href='http://kinnynews.blogspot.com/2011/09/blog-post_1246.html#comment-form' title='0 件のコメント'/><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/2427495263565810554/posts/default/875425987846786340'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/2427495263565810554/posts/default/875425987846786340'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://kinnynews.blogspot.com/2011/09/blog-post_1246.html' title='絶倫列伝（５）'/><author><name>kinny Halentino</name><uri>http://www.blogger.com/profile/14683346301918691511</uri><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='32' height='25' src='http://1.bp.blogspot.com/-Am7xEkC0nk0/TnrQ5N4sUII/AAAAAAAAAAc/F917vsp1gAY/s220/IMGP0018_ss.JPG'/></author><thr:total>0</thr:total></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-2427495263565810554.post-7058159134137557392</id><published>2011-09-26T12:04:00.000+09:00</published><updated>2011-09-26T12:04:17.367+09:00</updated><category scheme='http://www.blogger.com/atom/ns#' term='中国'/><category scheme='http://www.blogger.com/atom/ns#' term='世界史'/><title type='text'>絶倫列伝（４）</title><content type='html'>&lt;br /&gt;&lt;div style="margin-bottom: 0cm;"&gt;&lt;span style="font-size: medium;"&gt;　世に男の嫉妬ほど見苦しくも恐ろしいものはない。ここに至り、臣下の不満が形をともなって動き出す。&lt;/span&gt;&lt;/div&gt;&lt;div style="margin-bottom: 0cm;"&gt;&lt;span style="font-size: medium;"&gt;　といっても、その表現は隠微だった。后を奪われ、鬱屈した「忠義者」たちは、密偵を嫪毒と后の周囲に送り込み、その身辺をまさぐった。&lt;/span&gt;&lt;/div&gt;&lt;div style="margin-bottom: 0cm;"&gt;&lt;span style="font-size: medium;"&gt;　「何か出てくれば真偽なく騒ぎ立てて、あの憎らしい笑みを泥にまみれさせてやる」&lt;/span&gt;&lt;/div&gt;&lt;div style="margin-bottom: 0cm;"&gt;&lt;br /&gt;&lt;/div&gt;&lt;div style="margin-bottom: 0cm;"&gt;&lt;span style="font-size: medium;"&gt;　やがて密偵は復命した。が、何かあるどころの騒ぎではなかった。&lt;/span&gt;&lt;/div&gt;&lt;span style="font-size: medium;"&gt; &lt;/span&gt;&lt;div style="margin-bottom: 0cm;"&gt;&lt;span style="font-size: medium;"&gt;　ざっくざっくと出るわ出るわ、絶倫宦官という衝撃の事実を皮切りに、すでに后との間に二児があるだの、そもそも事を謀ったのが宰相の呂不韋であっただの、かっては当の呂不韋自身が先王時代から后と密通していただの、極めつけは今上の嬴政さえ呂不韋のたねであるらしいこと等々、思わず天を仰ぎ瞼を伏せ耳を覆いたくなるようなアンタッチャブルズが止めどなくあふれ出てきた。&lt;/span&gt;&lt;/div&gt;&lt;div style="margin-bottom: 0cm;"&gt;&lt;br /&gt;&lt;/div&gt;&lt;div style="margin-bottom: 0cm;"&gt;&lt;span style="font-size: medium;"&gt;　復命が進むにつれ、后によってお払い箱になった凡夫たちの可憐な愛息は、見るも無惨に縮み上がってゆく。嫉妬に狂い、仇し男の身辺を嗅ぎ回るような矮小連中の手に負える問題ではなかった。&lt;/span&gt;&lt;/div&gt;&lt;div style="margin-bottom: 0cm;"&gt;&lt;span style="font-size: medium;"&gt;&amp;nbsp;　国政のトップとナンバー２が相手である以上、これらを一意に覆すのは無謀である。が、同時に一旦策略を巡らせた以上、見ないフリをすることはさらに危険であった。&lt;/span&gt;&lt;/div&gt;&lt;div style="margin-bottom: 0cm;"&gt;&lt;br /&gt;&lt;/div&gt;&lt;div style="margin-bottom: 0cm;"&gt;&lt;span style="font-size: medium;"&gt;　まず彼らは、嫪毒不実の噂ありとの旨を嬴政に吹き込むところから始めた。いわく&lt;/span&gt;&lt;/div&gt;&lt;div style="margin-bottom: 0cm;"&gt;&lt;span style="font-size: medium;"&gt;　「長信候、じつは去るもの去らざる真正の男で、畏れ多くも御母后と日々密通している旨、密告がございます。宮中不穏は国乱の元、調査公表して人心を静めましょう」&lt;/span&gt;&lt;/div&gt;&lt;div style="margin-bottom: 0cm;"&gt;&lt;br /&gt;&lt;/div&gt;&lt;div style="margin-bottom: 0cm;"&gt;&lt;span style="font-size: medium;"&gt;　なるほど、たわいもない。&lt;/span&gt;&lt;/div&gt;&lt;div style="margin-bottom: 0cm;"&gt;&lt;span style="font-size: medium;"&gt;　が、申し分はもっともでもあり、嬴政はすぐに調査を命じる。そこで始めて「確証」があり、「事が露見する」わけだ。&lt;/span&gt;&lt;/div&gt;&lt;div style="margin-bottom: 0cm;"&gt;&lt;br /&gt;&lt;/div&gt;&lt;div style="margin-bottom: 0cm;"&gt;&lt;span style="font-size: medium;"&gt;　たかが知れたる捨てられ男たちながら、こうした場合、むしろその「凡庸さ」こそ武器であろう。ネチネチと嫉妬する惨めな精神こそが他者の秘密をのぞき見る際の執拗さを育み、矮小さこそが策略に際し細心の注意を払わせ、臆病と小胆こそが彼らを処世の知恵者にした。&lt;/span&gt;&lt;/div&gt;&lt;div style="margin-bottom: 0cm;"&gt;&lt;br /&gt;&lt;/div&gt;&lt;div style="margin-bottom: 0cm;"&gt;&lt;span style="font-size: medium;"&gt;　当たり前のことだが嫪毒、今上直々の追求ゆえ、死は免れない。開き直った絶倫宦官は大胆にも御璽を盗み出して偽勅を発し、兵を集め、逆襲を試みた。が、用意周到な嬴政によって退けられ、かえって大敗、逃走する。嬴政は間髪入れず嫪毒の生け捕りに百万銭、死骸に五十万銭を賞与する旨を布告、たまらず生け捕りにされた嫪毒は拷問に遭い、それまでの経緯を洗いざらいぶちまけてしまう。&lt;/span&gt;&lt;/div&gt;&lt;div style="margin-bottom: 0cm;"&gt;&lt;span style="font-size: medium;"&gt;　もはや凡夫どもは高みの見物を決め込んでいれば良かったが、そこは凡人の常、一旦優位に立てばツメは厳重、追い打ちは酷薄苛烈だった。&lt;/span&gt;&lt;/div&gt;&lt;div style="margin-bottom: 0cm;"&gt;&lt;br /&gt;&lt;/div&gt;&lt;div style="margin-bottom: 0cm;"&gt;&lt;span style="font-size: medium;"&gt;　史伝によれば、嫪毒は全裸の肢体を公衆の面前で部署毎に緊縛され、生きたまま戦車によって牽き裂かれた。また他方、一部伝わるところによると、自慢の巨根にも縄打たれ、最後まで胴部と分離しなかった部位こそがそれで、これが離れた瞬間、反動で戦車が反対側に百丈飛んだという（筆者の私見ながら、これは事実ではなかろう）。後に后との間にできた二児はもちろん、族党もろとも惨殺され、世にも得がたい絶倫の一枝が、ここにひとつ潰えた。&lt;/span&gt;&lt;/div&gt;&lt;div style="margin-bottom: 0cm;"&gt;&lt;span style="font-size: medium;"&gt;（続く）&lt;/span&gt;&lt;/div&gt;&lt;div style="margin-bottom: 0cm;"&gt;&lt;span style="font-size: medium;"&gt; &lt;/span&gt;&lt;/div&gt;&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/2427495263565810554-7058159134137557392?l=kinnynews.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='replies' type='application/atom+xml' href='http://kinnynews.blogspot.com/feeds/7058159134137557392/comments/default' title='コメントの投稿'/><link rel='replies' type='text/html' href='http://kinnynews.blogspot.com/2011/09/blog-post_2182.html#comment-form' title='0 件のコメント'/><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/2427495263565810554/posts/default/7058159134137557392'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/2427495263565810554/posts/default/7058159134137557392'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://kinnynews.blogspot.com/2011/09/blog-post_2182.html' title='絶倫列伝（４）'/><author><name>kinny Halentino</name><uri>http://www.blogger.com/profile/14683346301918691511</uri><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='32' height='25' src='http://1.bp.blogspot.com/-Am7xEkC0nk0/TnrQ5N4sUII/AAAAAAAAAAc/F917vsp1gAY/s220/IMGP0018_ss.JPG'/></author><thr:total>0</thr:total></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-2427495263565810554.post-793673168004075338</id><published>2011-09-26T11:56:00.001+09:00</published><updated>2011-09-26T11:56:54.369+09:00</updated><category scheme='http://www.blogger.com/atom/ns#' term='中国'/><category scheme='http://www.blogger.com/atom/ns#' term='世界史'/><title type='text'>絶倫列伝（３）</title><content type='html'>&lt;br /&gt;&lt;div style="margin-bottom: 0cm;"&gt;&lt;span style="font-size: medium;"&gt;　久しく呂不韋の食客として飼い殺しの日々を過ごしていた嫪毒に、運命の転機がおとずれる。呂不韋はかねてより「奇貨おくべし」の本命たる先王・子楚の后と密通をくり返していたが、彼女の果てしない荒淫と貪婪ぶりに体力がついて行かなくなり、ついに密事の終焉を申し出た。もちろん后は許さない。今でこそ一国の隠れなき国母だが、元はといえば彼女も、この呂不韋に飼われたる愛人であった。子楚が呂不韋の尽力により晴れて名声を博した後、あわせ献上された身の上なのだ。ほとんど腐れ縁と言ってもよく、はじめから遠慮などあったものではない。呂不韋にしてみれば、元は囲いの愛人ながら、今では逆に今上の嬴政に次ぐ不可侵の絶対者である。后は呂不韋よりはるかに若く、気力体力ともに旺盛だ。細身ながら、嫪毒と同じ舞踊の出だけあって、その肢体は強靱かつしなやかだった。老境を迎えつつあるわが身の衰えと、娘ほどに年の離れた后による執拗な肉体的奉仕の強要に追い詰められた呂不韋は、困じ果て、食客の嫪毒に白羽の矢を立てた。代わりに后を慰めよ、というわけだ。といって、無位無冠の巨根が無資格のまま用もなく後宮をうろつくことなどできるわけがない。やむなく去勢記録を捏造、髭を去らしめて宦官とし、お役目公然と出入りさせることにした。&lt;/span&gt;&lt;/div&gt;&lt;div style="margin-bottom: 0cm;"&gt;&lt;br /&gt;&lt;/div&gt;&lt;div style="margin-bottom: 0cm;"&gt;&lt;span style="font-size: medium;"&gt;　権勢比べる者のない呂不韋にとって、后を黙らせることなど、その気になればたやすいことであったに違いない。八方手を尽してやったのは、因果な后をあわれんだからに他ならない。結局のところ呂不韋とは、夢と才能こそ格別ながら、英雄としては生来の情が細やかに過ぎ、学者気質な気の優しい紳士だったのであろう。&lt;/span&gt;&lt;/div&gt;&lt;div style="margin-bottom: 0cm;"&gt;&lt;span style="font-size: medium;"&gt;&amp;nbsp;　手切れの品として絶倫の嫪毒を差し出すことで、呂不韋は腹上死の危機を脱した。が、このことが、後に呂不韋自身の運命をも破滅に追い込むことになろうとは、思いもよらない。&lt;/span&gt;&lt;/div&gt;&lt;div style="margin-bottom: 0cm;"&gt;&lt;br /&gt;&lt;/div&gt;&lt;div style="margin-bottom: 0cm;"&gt;&lt;span style="font-size: medium;"&gt;　偽宦官の嫪毒は、たちまち后の寵を受けるようになった。たださえ見目うるわしい青年である。舞踊によって鍛えられた体躯と軽やかな身のこなし、おまけに無双の絶倫ときたものだから、一日として男なしでいられない后を虜にするなど、わけもないことだった。俄然、嫪毒は后に口利きをさせ、出世街道を驀進する。&lt;/span&gt;&lt;/div&gt;&lt;div style="margin-bottom: 0cm;"&gt;&lt;span style="font-size: medium;"&gt;　呂不韋ほどの実力者が、かって踊り子兼愛人として囲っていた女だけに、后が並外れた美女であったことだけは間違いなかろう。秘かに焦がれて禁を犯し、后の好色につけ込んでは情夫を買って出る男どもの一団があっても、むしろ当然といえた。呂不韋に代わって宦官の嫪毒が情夫の座に収まるや、もしそれら「忠義」の若き補欠どもが揃ってお払い箱になったのだとすれば、さぞや嫪毒も衆の恨みを買ったことであろう。&lt;/span&gt;&lt;/div&gt;&lt;div style="margin-bottom: 0cm;"&gt;&lt;br /&gt;&lt;/div&gt;&lt;div style="margin-bottom: 0cm;"&gt;&lt;span style="font-size: medium;"&gt;　「交合もかなわぬ腐れ宦官のくせに、生まれもっての美貌と前戯の技のみで若き母后様の愛を不毛に独占している。それにしてもうまく取り入ったものだ。出世に次ぐ出世、今や権勢並ぶ者ない勢いじゃないか・・」&lt;/span&gt;&lt;/div&gt;&lt;div style="margin-bottom: 0cm;"&gt;&lt;br /&gt;&lt;/div&gt;&lt;div style="margin-bottom: 0cm;"&gt;&lt;span style="font-size: medium;"&gt;　そんなある日、后の口利きが功を奏したのか、嫪毒は宦官身分のままに長信候に封じられる。もはや右に出る者は宰相の呂不韋をおいて他にない。秦国第二の実力者に成り上がった嫪毒だが、食客千人と史伝にあるように、人望もまた尋常ではなかったようだ。巨根というだけで出世できるほど春秋末の世は甘くなく、むしろ相応以上の才に恵まれていたと考える方が自然だ&lt;/span&gt;&lt;span style="font-size: medium;"&gt;。が、このことは、嫪毒の運命を好転させはしなかった。いや、終局的にみれば、むしろ悪化させたというべきであろう。&lt;/span&gt;&lt;/div&gt;&lt;div style="margin-bottom: 0cm;"&gt;&lt;span style="font-size: medium;"&gt;（続く） &lt;/span&gt;&lt;/div&gt;&lt;div style="margin-bottom: 0cm;"&gt;&lt;span style="font-size: medium;"&gt;&lt;br /&gt;&lt;/span&gt;&lt;/div&gt;&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/2427495263565810554-793673168004075338?l=kinnynews.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='replies' type='application/atom+xml' href='http://kinnynews.blogspot.com/feeds/793673168004075338/comments/default' title='コメントの投稿'/><link rel='replies' type='text/html' href='http://kinnynews.blogspot.com/2011/09/blog-post_6167.html#comment-form' title='0 件のコメント'/><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/2427495263565810554/posts/default/793673168004075338'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/2427495263565810554/posts/default/793673168004075338'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://kinnynews.blogspot.com/2011/09/blog-post_6167.html' title='絶倫列伝（３）'/><author><name>kinny Halentino</name><uri>http://www.blogger.com/profile/14683346301918691511</uri><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='32' height='25' src='http://1.bp.blogspot.com/-Am7xEkC0nk0/TnrQ5N4sUII/AAAAAAAAAAc/F917vsp1gAY/s220/IMGP0018_ss.JPG'/></author><thr:total>0</thr:total></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-2427495263565810554.post-5803281989080762891</id><published>2011-09-26T11:37:00.002+09:00</published><updated>2011-09-26T11:37:37.626+09:00</updated><category scheme='http://www.blogger.com/atom/ns#' term='中国'/><category scheme='http://www.blogger.com/atom/ns#' term='世界史'/><title type='text'>絶倫列伝（２）</title><content type='html'>&lt;br /&gt;&lt;div style="margin-bottom: 0cm;"&gt;&lt;span style="font-size: medium;"&gt;　紀元前二七二年、人の伝えるところによれば、嫪毒は舞踊家の父・嫪&lt;span lang="ja-JP"&gt;巨&lt;/span&gt;の十八男に生まれた。芸能を生業とするだけに、父は面立ち秀でた優男であったろう。嫪毒に、どれほどの兄弟があったかは定かではない。が、少なくとも上に十七人が連なるところから、後世の嫪毒の精力絶倫は、どうやら父譲りであった。「絶倫のエリート」というわけだ。&lt;/span&gt;&lt;/div&gt;&lt;div style="margin-bottom: 0cm;"&gt;&lt;span style="font-size: medium;"&gt;　父の教えを受け、嫪毒も幼い頃より舞踊に親しんだに違いない。舞台に上げられることさえあったかも知れず、後にみられる恰幅の良さから想像するに、およそ人や物に怖じない、所作の行き届いた少年であった。父に似た目元涼やかな美男、との想像が許されてもよく、家業に育まれたしなやかな肢体もさることながら、およそ世の女性から、愛されるべくして愛され、成長したであろう。 &lt;/span&gt;&lt;/div&gt;&lt;div style="margin-bottom: 0cm;"&gt;&lt;br /&gt;&lt;/div&gt;&lt;div style="margin-bottom: 0cm;"&gt;&lt;span style="font-size: medium;"&gt;　長じて呂不韋の食客となる頃には、舞踊家としても、また女泣かせとしても一流であった。そもそも呂不韋が目を付けたのも、この男の格別な魅力を奇貨と覚えたためである。　余談ながら、後世に広く知られる「奇貨おくべし」の発語の主こそ、この呂不韋であった。後に嫪毒の運命を翻弄するこの男、よほどの数奇者であったに違いなく、政財界人というより、異能者発掘業という職業があると仮定すれば、むしろその業者であった。&lt;/span&gt;&lt;/div&gt;&lt;div style="margin-bottom: 0cm;"&gt;&lt;br /&gt;&lt;/div&gt;&lt;div style="margin-bottom: 0cm;"&gt;&lt;span style="font-size: medium;"&gt;　ともあれ嫪毒、宴の席などではしたたか酔い食らい、衆の前で得意の舞踊を度々披露しては悦に入ったという。正史さえ伝えるこの男の舞いには、陽根踊りともいうべき珍妙な演目があった。ときに衆の前で直立しつつ、同時に陽根をも直立させ軸となし、あろうことか、軽量の桐製とはいえ、馬車の車輪を貫いてみせ、くるくると回転させたというのだから、その雄々しさ逞しさ尋常ではない。&lt;/span&gt;&lt;/div&gt;&lt;div style="margin-bottom: 0cm;"&gt;&lt;span style="font-size: medium;"&gt;　２&lt;/span&gt;&lt;span style="font-family: Times New Roman,serif;"&gt;&lt;span style="font-size: medium;"&gt;kg&lt;/span&gt;&lt;/span&gt;&lt;span style="font-size: medium;"&gt;はくだらぬ車輪の暴力的な重みに堪え、なお屹立し得る巨根というが、巨根云々というより、確かに人類共通のタンパク質によって組成されているのか、はなはだ疑問というべきであった。往時の馬車の車輪は大柄で、車軸近くの幅は優に半尺を上回ったであろう。とすれば、重量の支点は、陽根の付け根より&lt;/span&gt;&lt;span style="font-family: Times New Roman,serif;"&gt;&lt;span style="font-size: medium;"&gt;10&lt;/span&gt;&lt;/span&gt;&lt;span style="font-size: medium;"&gt;センチ近くも離れた箇所にあったと考えられ、いかに硬化していたにせよ、タンパク質と血液の混成物に過ぎぬ海綿体の硬度によって支えるには、あまりに重すぎたのではなかったか。&lt;/span&gt;&lt;/div&gt;&lt;div style="margin-bottom: 0cm;"&gt;&lt;span style="font-size: medium;"&gt;　つまり伝承が真実であるとすれば、彼の陽根の直径は、支点までの距離と同じく&lt;/span&gt;&lt;span style="font-family: Times New Roman,serif;"&gt;&lt;span style="font-size: medium;"&gt;10&lt;/span&gt;&lt;/span&gt;&lt;span style="font-size: medium;"&gt;センチ近くに及んでいなければならず、またその長さは、車輪の幅を貫いてさえ見せ物として通用したことから、最低でも&lt;/span&gt;&lt;span style="font-family: Times New Roman,serif;"&gt;&lt;span style="font-size: medium;"&gt;30&lt;/span&gt;&lt;/span&gt;&lt;span style="font-size: medium;"&gt;センチ以上はあったとみるべきであろう。&lt;/span&gt;&lt;/div&gt;&lt;div style="margin-bottom: 0cm;"&gt;&lt;span style="font-size: medium;"&gt;　と、試みに調べて仰天、長さ&lt;/span&gt;&lt;span style="font-family: Times New Roman,serif;"&gt;&lt;span style="font-size: medium;"&gt;30cm&lt;/span&gt;&lt;/span&gt;&lt;span style="font-size: medium;"&gt;を超え、直径&lt;/span&gt;&lt;span style="font-family: Times New Roman,serif;"&gt;&lt;span style="font-size: medium;"&gt;10cm&lt;/span&gt;&lt;/span&gt;&lt;span style="font-size: medium;"&gt;に及ぶ巨根の記録や伝承は、世界各地でざらに存在した。どうも嫪毒の史伝を頭から一蹴することはできないようだ（ただし私見ながら、言い伝え通りに車輪を回転してみせたとすれば、大いなる痛みと裂傷を覚悟しなければならなかったであろう）。&lt;/span&gt;&lt;/div&gt;&lt;div style="margin-bottom: 0cm;"&gt;&lt;span style="font-size: medium;"&gt;（続く）&lt;/span&gt;&lt;/div&gt;&lt;div style="margin-bottom: 0cm;"&gt;&lt;span style="font-size: medium;"&gt; &lt;/span&gt;&lt;/div&gt;&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/2427495263565810554-5803281989080762891?l=kinnynews.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='replies' type='application/atom+xml' href='http://kinnynews.blogspot.com/feeds/5803281989080762891/comments/default' title='コメントの投稿'/><link rel='replies' type='text/html' href='http://kinnynews.blogspot.com/2011/09/blog-post_685.html#comment-form' title='0 件のコメント'/><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/2427495263565810554/posts/default/5803281989080762891'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/2427495263565810554/posts/default/5803281989080762891'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://kinnynews.blogspot.com/2011/09/blog-post_685.html' title='絶倫列伝（２）'/><author><name>kinny Halentino</name><uri>http://www.blogger.com/profile/14683346301918691511</uri><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='32' height='25' src='http://1.bp.blogspot.com/-Am7xEkC0nk0/TnrQ5N4sUII/AAAAAAAAAAc/F917vsp1gAY/s220/IMGP0018_ss.JPG'/></author><thr:total>0</thr:total></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-2427495263565810554.post-7741193632338185222</id><published>2011-09-26T11:33:00.000+09:00</published><updated>2011-09-26T11:33:51.897+09:00</updated><category scheme='http://www.blogger.com/atom/ns#' term='中国'/><category scheme='http://www.blogger.com/atom/ns#' term='世界史'/><title type='text'>絶倫列伝（１）</title><content type='html'>&lt;br /&gt;&lt;div style="margin-bottom: 0cm;"&gt;&lt;span style="font-size: medium;"&gt;　かつて精力絶倫であることを生業とし、またその由によって、おそらく世界でもっとも出世した男がいた。といっても、日本の話ではない。はるか紀元前、秦の国の話である。&lt;/span&gt;&lt;/div&gt;&lt;div style="margin-bottom: 0cm;"&gt;&lt;span style="font-size: medium;"&gt;　この男についての物語は、正史にあってさえ両論併記がみられ、伝承にあっては、後世による歪曲・誇張とも思しき箇所が少なからず見受けられる。が、事象のいちいちを克明に追っていくと、あながち非現実とも言い切れぬケースが数多くある。ならいっそ、小説の体を採用し、その「語られっぷり」を存分に披露することで、絶倫という、人類における最大価値の本質を、より鮮明に浮かび上がらせようではないか。&lt;/span&gt;&lt;/div&gt;&lt;div style="margin-bottom: 0cm;"&gt;&lt;span style="font-size: medium;"&gt;　男の名を嫪毒&lt;span lang="ja-JP"&gt;※&lt;/span&gt;という。秦の嬴政、後のいわゆる始皇帝の仲父として権勢と官位を極めた&lt;span lang="ja-JP"&gt;、&lt;/span&gt;呂不韋という&lt;span lang="ja-JP"&gt;、&lt;/span&gt;これまた絶倫男の食客であった。後世によって、ありとあらゆる残酷な誹謗と興味本位の中傷を浴びせられるこの嫪毒、何を隠そう、嬴政の母后に仕える宦官である。&lt;/span&gt;&lt;/div&gt;&lt;div style="margin-bottom: 0cm;"&gt;&lt;br /&gt;&lt;/div&gt;&lt;div style="margin-bottom: 0cm;"&gt;&lt;span style="font-size: medium;"&gt;　なるほど、身もフタもない。&lt;/span&gt;&lt;/div&gt;&lt;div style="margin-bottom: 0cm;"&gt;&lt;span style="font-size: medium;"&gt;　「けして付いていてはならない」はずの男が「付いている」どころの騒ぎではなく、ケタ外れの陽根の持ち主だったというのだから、後世の中傷も、半ばは罪がない。&lt;/span&gt;&lt;/div&gt;&lt;div style="margin-bottom: 0cm;"&gt;&lt;br /&gt;&lt;/div&gt;&lt;div style="margin-bottom: 0cm;"&gt;&lt;span style="font-size: medium;"&gt;　が、この男の身になってみれば、およそ致し方ないことであった。&lt;/span&gt;&lt;/div&gt;&lt;div style="margin-bottom: 0cm;"&gt;&lt;span style="font-size: medium;"&gt;　まず、身に陽根帯びた嫪毒を宦官に偽装し、後宮に推挙したのが、食客三千を擁する権勢まぎれもない秦の丞相・呂不韋である。大陸政界の頂点にあったこの男、その前半生においては大商人として比類ない成功を収め、最晩年には巨著・呂氏春秋の編纂を指揮し完成させた大学者だった。商人としても、国家の運営者としても、大学者としても、最大かつ完全な成功を収めた当代無双の大巨人である。今日でいえば、国内最大の企業グループの代表経営者が財界トップに就任、転じて総理大臣として国家を運営、日本を無二の富強国に育て上げ、晩年には大学者として研究を指揮、ノーベル賞を総ナメにしたようなものだ。人としての重量、例えようもない。&lt;/span&gt;&lt;/div&gt;&lt;div style="margin-bottom: 0cm;"&gt;&lt;span style="font-size: medium;"&gt;　恩を受けた人物からの依頼は、そもそもが非常に断りづらい。ましてその行為が当初から明白に違法である以上、内外にみなぎる依頼主の政治力を鑑みるに、断れば、ただ転落一途の後半生が待つのみであろう。&lt;/span&gt;&lt;/div&gt;&lt;div style="margin-bottom: 0cm;"&gt;&lt;span style="font-size: medium;"&gt;　嫪毒には、選択の余地など、ただの一寸もなかったのである。&lt;/span&gt;&lt;/div&gt;&lt;div style="margin-bottom: 0cm;"&gt;&lt;span style="font-size: medium;"&gt;（続く）&lt;/span&gt;&lt;/div&gt;&lt;div style="margin-bottom: 0cm;"&gt;&lt;br /&gt;&lt;/div&gt;&lt;div style="margin-bottom: 0cm;"&gt;&lt;/div&gt;&lt;div lang="ja-JP" style="margin-bottom: 0cm;"&gt;※&lt;span style="font-size: medium;"&gt;正しく表記する外字がなかったため、「毒」を用いた。「嫪あい」&lt;/span&gt;&lt;/div&gt;&lt;div style="margin-bottom: 0cm;"&gt;&lt;br /&gt;&lt;/div&gt;&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/2427495263565810554-7741193632338185222?l=kinnynews.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='replies' type='application/atom+xml' href='http://kinnynews.blogspot.com/feeds/7741193632338185222/comments/default' title='コメントの投稿'/><link rel='replies' type='text/html' href='http://kinnynews.blogspot.com/2011/09/blog-post_26.html#comment-form' title='0 件のコメント'/><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/2427495263565810554/posts/default/7741193632338185222'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/2427495263565810554/posts/default/7741193632338185222'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://kinnynews.blogspot.com/2011/09/blog-post_26.html' title='絶倫列伝（１）'/><author><name>kinny Halentino</name><uri>http://www.blogger.com/profile/14683346301918691511</uri><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='32' height='25' src='http://1.bp.blogspot.com/-Am7xEkC0nk0/TnrQ5N4sUII/AAAAAAAAAAc/F917vsp1gAY/s220/IMGP0018_ss.JPG'/></author><thr:total>0</thr:total></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-2427495263565810554.post-9103091117167502331</id><published>2011-09-22T15:50:00.002+09:00</published><updated>2011-09-22T15:52:17.983+09:00</updated><category scheme='http://www.blogger.com/atom/ns#' term='日本の偉人'/><title type='text'>最澄のこころ（４）</title><content type='html'>◆盟友・空海との運命の決裂&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　桓武帝崩御の年の秋、遣唐使の一団に加わっていた空海が帰国する。雑密横行する日本にあって、鎮護国家の大命を果たすには、唐代最新の密教を体系ごと導入するのが最良と判断した最澄は、唐行の帰途に自身が受けた灌頂が傍系のものだったこともあり、首都長安で唐地本流の密教の灌頂を受けた空海に、弟子の礼を尽し、伝授を乞うた。と、二人の天才はたちまち意気投合し、七年にも渡って交流を温め合ったが、途中、金剛頂経の第六会の経典「理趣経」の貸し出しを巡り対立、ついに教義上の理由をもって空海はこれを拒否した。&lt;br /&gt;　空海にしてみれば、いわば新進気鋭の総合大学の学長として圧倒的な声望を集めつつある最澄ではあるものの、その一部門として密教が組み入れられるかのごときは本懐ではなかった。何より、長い交流を通じて、最澄の仏教観と、自分の仏教観が、結局は相容れないであろうことを空海は悟っていた。詳細はすでに述べたとおりである。最澄はどこまでも護国と向学の師であり、優れた人材を育てることで、政治乱れ、鶏卵のごとき危うきに立つ日本を救済し、日本を救済することで、いわば包括的な衆生の救済を図った。一方の空海は、教えの原則によらなければ、個々の救済は能わず、個々の救済が能わざれば、たとえ国が救済されたところで、救いの道は不完全なままである、と考えたのだった。&lt;br /&gt;　二人はいずれも正しかった、との回答のタネ明かしをしておく。以降の長い歴史を鳥瞰できる後世からは「それでよかった」としか言えないのである。最澄は大学機能の充足によって、後世に著名な法然、親鸞、道元、日蓮、一遍はじめ、空也、良源、円珍、良忍、栄西、慈円を輩出し、日本の教養と向学心、勤勉に資して国威を高揚、後世を明るく照らし出した。&lt;br /&gt;　一方の空海は、淀みない信仰と求道の精神をもって、世界に冠たる日本の道徳心と本然的な信心の扶養に資した。&lt;br /&gt;　この二人が対立し、二宗並立したことは、むしろ後世にとってさいわいだったのではなかったか。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;◆死の直前まで働きづめに働いた最澄&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　最澄は弘仁五年（八一四）九州巡化を皮切りに、その後も精力的に各地を巡り、天台の普及と法華経の伝教に務めた。東遷時には一万八千巻を写経、上野、下野各地他、比叡山西塔、比叡山東塔等に奉納すべく、計六カ所に宝塔の建立を発願している。&lt;br /&gt;　弘仁九年（八一八）、入寂の季節を控え、衰えの目立つ最澄だったが、まるで体力の低下に抗うかのように自身に鞭を振るい続ける。「天台法華宗年分学生式」以下六条式、八条式、四条式、さらに先述の「山家学生式」十八ヵ条を著述した。また、大乗戒壇院の設立を阻む南都と執拗に論戦、「顕戒論」「顕戒論縁起」「内証仏法相承血脈譜」を表して、入寂後の天台宗の発展になおも貢献した。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　弘仁十三年（八二二）五月、最後の時を悟った最澄は、自身の生涯をかけて育て上げた作品・天台宗を、愛弟子の義真に委ねる。ほどなく中道院において入寂、五十六年の生涯を閉じた。&lt;br /&gt;　と、七日後、南都の猛反発を押し切って嵯峨天皇が叡山に大乗戒壇院の勅許を下した。最後の願いは聞き届けられたのだ。書の大家としても名高い帝は、最澄のために哭澄上人詩を表し、最澄の死をくり返し嘆いている。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;「像爐に　蒼生橋梁に少なく　緇侶律儀疎し&lt;br /&gt;法軆何ぞ久しく住まらん　塵心傷みて餘り有り」&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　天皇はその翌年、比叡山寺に延暦寺の名を下賜、貞観八年（八六六）には最澄に伝教大師の諡号を追賜した。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　衆生のため、日本国のために、寸暇の休息なく働き続けた五十六年だった。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;（了）&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;参考文献：&lt;br /&gt;&lt;a href="http://www.kk-bestsellers.com/cgi-bin/detail.cgi?isbn=978-4-584-39316-1"&gt;「空海を知っていますか」　日本博識研究所&lt;/a&gt;&lt;br /&gt;&lt;a href="http://www.hmv.co.jp/product/detail/3002902"&gt;「最澄と空海」　立川武蔵&lt;/a&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/2427495263565810554-9103091117167502331?l=kinnynews.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='replies' type='application/atom+xml' href='http://kinnynews.blogspot.com/feeds/9103091117167502331/comments/default' title='コメントの投稿'/><link rel='replies' type='text/html' href='http://kinnynews.blogspot.com/2011/09/blog-post_2964.html#comment-form' title='2 件のコメント'/><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/2427495263565810554/posts/default/9103091117167502331'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/2427495263565810554/posts/default/9103091117167502331'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://kinnynews.blogspot.com/2011/09/blog-post_2964.html' title='最澄のこころ（４）'/><author><name>kinny Halentino</name><uri>http://www.blogger.com/profile/14683346301918691511</uri><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='32' height='25' src='http://1.bp.blogspot.com/-Am7xEkC0nk0/TnrQ5N4sUII/AAAAAAAAAAc/F917vsp1gAY/s220/IMGP0018_ss.JPG'/></author><thr:total>2</thr:total></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-2427495263565810554.post-5168330745674901391</id><published>2011-09-22T15:38:00.000+09:00</published><updated>2011-09-22T15:38:30.130+09:00</updated><category scheme='http://www.blogger.com/atom/ns#' term='日本の偉人'/><title type='text'>最澄のこころ（３）</title><content type='html'>◆最澄、叡峰に拠って桓武天皇に注目される&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　南都仏教による政治介入を除く狙いで先だって進められていた長岡京遷都の試みは頓挫した。桓武天皇の信任篤い造長岡宮使の藤原種継が暗殺され、後に南都東大寺に深く関わる者が数多く共謀に荷担していた事実が発覚したため、天皇はこれらを厳しく追求、処断した。と、その後、天皇の身辺で病に倒れる者が続出、天変地異が相次いだため、遷都わずか十年ほどで平安京への再遷都が行われる。この平安京の鬼門に当たる部分には、最澄の比叡山寺がある。都の鬼門を扼する比叡山寺は造宮を進める桓武天皇にとり、極めて重要であったため、さっそく腹心の和気清麻呂を遣わし、最澄に全山挙げての鎮護国家を担わせる。&lt;br /&gt;　表向きの事情が真実だとしたら、まさに最澄は、比叡山に拠ったことで最大の後見人を得たことになる。が、もちろん狙ったわけではないし、狙いようもなかろう。始めに述べたように、最澄にとってみれば、生家の裏山をよじ登ったに過ぎない。&lt;br /&gt;　最澄は、法華経をもって鎮護国家の主柱と為すべく、寝食を惜しんで研究に没頭した。数多くの人材と十年の歳月を費やし、ついに一切経七千余巻の確立を見た最澄は延暦十六年（七九七）、内供奉十禅師を桓武天皇より拝命する。職務は天皇の侍医と安穏祈念だ。延暦十七年（七九八）十一月には、広く天下に向け法華の確立を宣するにあたり「法華十講」を開催、また高雄山寺で「天台三大部」の講義を大々的に敢行、天皇側近であった和気氏の全面的なバックアップもあり、天台一山の声望は、大いなる高まりをみせた。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;◆国が後押しした入唐求法。最澄師弟は官費留学生だった。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　すでに宗門の確立と研究成果において、常人の十人分以上の働きを終えていた最澄だったが、彼のひたむきな向学指向は止まるところを知らなかった。思えば、入山にあたってみずからに誓った「願文」における、ほとんど叫び出すかのようなタマシイの咆吼が、その後も何ら忘れ去られることのないままに、間断なく最澄の濃厚な生涯を支配していた。最澄はなお、未だ達せざるを強く意識した。「国家の安危は自分の双肩にかかっている」との強い思いに悩んだ最澄は、ついに留学を決意する。が、最澄の半身は官途にあったため、入唐には桓武天皇の許しを得なければならない。と、よほど愛されていたのか、あるいは最澄の類まれなひたむきさに帝も胸を打たれたのか、許しを得るに止まらず、費用も国が負担することとなった。&lt;br /&gt;　弟子の義真とともに、最澄は入唐求法を果たす。が、これが苦難相次ぐ最澄の後半生への始まりとなる。延暦二十二年（八○四）すでに三十七の齢を数えていた最澄は、意気揚々と唐に向けて出発するものの、暴風雨のために死傷者が続出し、さらに漂流の末、筑紫に漂着、同地で年を越すことになる。翌年の夏、再度入唐を目指して日本を離れたものの、またも嵐に遭い、五十五日の漂流を経て寧波に漂着する。&lt;br /&gt;　最澄は旅の目的地・台州をたずね、天台山修禅寺の道邃と仏隴寺の行満から法門と典籍を授かり、帰国の途に就く。と、帰路、越の龍興寺に立ち寄って阿闍梨・順暁から密教の法具を得、教えを請い灌頂を授かった。が、これが後々、最澄を懊悩させる。旅程を満了し帰国した最澄を待ち受けていたのは、最大の後ろ盾であった桓武天皇の病の報であった。&lt;br /&gt;　最澄にとって見れば、みずからが入唐するために、天皇の安穏祈念と侍医としての務めを、他ならぬ天皇に請うて中断させ、しかも寄り道をして帰国するなり、天皇が病の床にあったのだ。これに責任を感じない者はいなかろうが、たださえ自身に厳しい最澄が、この事態をどう受け止めたか、想像するだに胸が詰まるようだ。&lt;br /&gt;　延暦二十三年（八○五）七月、最澄は上洛するなり宮中で天皇の病気平癒を祈ったが、一度快方に向かったかと思われた病状が再び悪化、その後も一進一退をくり返し、翌大同元年（八○六）崩御する。&lt;br /&gt;（続く）&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/2427495263565810554-5168330745674901391?l=kinnynews.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='replies' type='application/atom+xml' href='http://kinnynews.blogspot.com/feeds/5168330745674901391/comments/default' title='コメントの投稿'/><link rel='replies' type='text/html' href='http://kinnynews.blogspot.com/2011/09/blog-post_1191.html#comment-form' title='0 件のコメント'/><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/2427495263565810554/posts/default/5168330745674901391'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/2427495263565810554/posts/default/5168330745674901391'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://kinnynews.blogspot.com/2011/09/blog-post_1191.html' title='最澄のこころ（３）'/><author><name>kinny Halentino</name><uri>http://www.blogger.com/profile/14683346301918691511</uri><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='32' height='25' src='http://1.bp.blogspot.com/-Am7xEkC0nk0/TnrQ5N4sUII/AAAAAAAAAAc/F917vsp1gAY/s220/IMGP0018_ss.JPG'/></author><thr:total>0</thr:total></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-2427495263565810554.post-2741694062697118387</id><published>2011-09-22T15:29:00.000+09:00</published><updated>2011-09-22T15:29:29.217+09:00</updated><category scheme='http://www.blogger.com/atom/ns#' term='日本の偉人'/><title type='text'>最澄のこころ（２）</title><content type='html'>◆南都は陰謀と大逆、呪詛と祟りの巷と化した&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　歴史上有名な最澄入山の謎に迫る前に、往時の時代背景を駆け足で延べておきたく思う。最澄の生誕前後より、律令の世は早くも乱れに乱れていた。孝謙天皇による淳仁天皇への譲位と一方的な廃帝・流刑、みずからの重祚（譲位した帝がふたたび践祚すること）、平城のラスプーチンとも言われた弓削道鏡・浄人の兄弟によるクーデター未遂事件、さらに暗雲去ったと思われた光仁天皇の御代でも、践祚早々あろうことか皇后の井上内親王が呪詛大逆により廃され、皇太子は連座して庶人に落とされたが、井上内親王は後さらに天皇の実姉の二品をも呪詛にて薨去させたとして咎められ、幽閉に処された末に、連座させられた他戸親王ともども相次いで変死するに到った。ところが光仁天皇の即位を後押しした式家（藤原宇合家）兄弟の藤原蔵下麻呂が宝亀六年四十二才の若さで死去、天変地異も重なり、祟りを怖れた天皇は秋篠寺を建立するなどしたが、式家兄弟の連続変死と天変地異はその後も収まらず、宝亀八年、天皇と山部親王（後の桓武天皇）が相次いで病に床に伏し、鼠の大群、飢饉、台風、洪水、地震、流星、太白昼行（戦慄の余り彗星か流星の類を金星と見間違えたかと思われる）、干ばつ、落雷、蝗の大群、地震、疫病、宮中の怪異などが相次いで起こり、天応二年までのわずか五年間に藤原良継以下四人と光仁天皇あわせて五人が次々と死去ならびに崩御、極めつけは先帝喪中に起きた天武天皇の曾孫・氷上川継によるクーデター未遂事件で、もはや南都の政治腐敗と混乱は誰の目にも明らかな状況となっていた。&lt;br /&gt;　光仁天皇の御代、年を追う毎に、政情は悪化の一途を辿った。皇后であった井上内親王と他戸親王が変死、大混乱期に突入した宝亀六年（七七五）から、長岡京遷都の行われた延暦三年（七八四）までの九年間とは、およそ世人にとり、かって想像したこともないような期間であったに違いない。試みに最澄の年齢に当てはめてみる。と、九才から十八才となり、およそ学齢期から多感な青春時代に当てはまっていることがわかる。&lt;br /&gt;　では、後の盟友・空海の場合はどうだろうか。宝亀六年と言えば空海は一才、遷都があった延暦三年でも、空海は十一才に過ぎず、伯父について初学に就いたのは十四才というから、すでに遷都も進み、桓武天皇の御代も十年に達している。この違いは小さくない。&lt;br /&gt;　そもそも最澄は理想家肌の構想者タイプであり、空海は実践家肌の創造者タイプ、元来がウマの合う間柄ではない。が、意識し合いながらも引き付け合い、交歓したのは、互いがそれぞれの理想を高め合う存在であることを大いに認め合ったからに他ならない。と、そこにこそ両者の、僅かな時代感覚のズレが作用したのではないか。つまり入唐といい、求法というものの、宗派を代表するにあたってイメージしたゴールが、まるで違っていたのだ。&lt;br /&gt;　ただ一点、この違いを論じることほど難しいことはない。なぜなら、わたしたち現代人の貧弱で姑息な価値判断にさえ、彼らはためらいもなく上がり込んで、答えようのない問いを突きつけてくるからだ。「国宝とは何物ぞ」という痛烈な問いを。そしてわたしたち後世の悲痛な答えとしては、どちらも正しかった、というほかないのである。&lt;br /&gt;　王朝瓦解の跫音迫る南都にあって、最澄は青春時代を過ごした。彼の心の中の日本とは、鶏卵のごとき危うさの象徴であり、また師の教学志向と行跡から多大なる影響を受けた最澄にとって、鎮護国家と人材教育主義は、もはや彼のライフワークといってよかった。&lt;br /&gt;　創造性に満ち、密教の本質を鋭くえぐり出して曼荼羅の肝要を説く空海が見る「宝」と、後に、人材こそ国宝と主張した最澄の見る「宝」－。後年に住むわたしたちと異なり、その時代区分に生きた者にとっては、ずいぶんと意識されづらい「すれ違い」ではなかったか。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;◆具足戒を受戒するも束の間、最澄は南都を去る&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　延暦四年（七八五）、最澄は東大寺で具足戒を受戒する。彼の死後書かれたとされる「伝教大師由緒」という伝記によれば、どうやら宝亀の末ごろから、この延暦四年まで、行表のもと、南都にあって勉学に励んでいた最澄だったが、突如南都を去って比叡山に入山、草庵に籠もって大蔵経五千余巻を読破し、激烈な入山の表「願文」をみずからに叩き付ける。いつまでも完成しない自分にいらだつのは、青年期の男にはよくあることだ。が、最澄の場合、その徹底ぶりが常人とは違った。&lt;br /&gt;　たとえば「我自未得六根相似位以還不出仮」とは、ありのままに物事を受け止めうる六根（眼耳鼻舌身意）の獲得なしに山を下りない、という宣言なのだが、これだけで常人は一生山を下りられなくなる。と、その後の最澄の人生に対する態度を見ても明らかなことに、彼は生涯、みずからに誓った生き方を通そうとした。&lt;br /&gt;　「願文」では、以降も「戒めを守り、物事に対する執着を去るまで、人前に顔を出さない」もしくは「今後一切の努力は、衆生のために行い、自分のためには行わない」といった、およそ常人には実践不能の誓約が続く。ややくり返しになるが、彼は生涯、本気で、自らに課した生き方の達成に務めたのだった。青年期の最澄の篤くも激しい志を漏らさず編んだ「願文」は、その特筆すべき高潔・真摯については言うに及ばず、同時に多くの人の心を激しく揺さぶった、と言う点においても注目されていい。将来を嘱望された十九才の天才の胸に去来したもの、それは、あまりにも理想からかけ離れてしまった自分への激しい叱咤であった。&lt;br /&gt;　余談ながら、最澄が去った時期の東大寺は、まさに桓武天皇の信任篤い時の実力者・造長岡宮使藤原種継の暗殺計画が、一部の関係者によって謀られ、実行に移される前夜という情勢下にあった。もしかしたら、こうした動きは受戒を得たばかりの最澄も見聞したかも知れない。志操篤い最澄が、この仏門にあるまじき卑劣を目の当たりにしたとしたら、どう思い、あるいはどのように行動したであろうか。また、最澄と東大寺との後々の確執が、およそこの時期に根を生やしたものとしたら、突然の入山もあわせ、じつに諸事つじつまが合う。あるいは桓武天皇も後に事の次第を知り、最澄を寵愛するに到ったのではなかったか。見方によっては、十禅師の拝命や、京都の鬼門を護る、との説よりも、よほど納得がいくというものである。ともあれ、平安黎明のミステリーとして、ひとつ掲げおきたく思う。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　最澄は比叡山に籠もるや、ほぼ迷った形跡もなく一念三千の世界に没入していく。一念三千とは天台の根本教理であり、先に触れたように、恩師である行表の師、道センのかっての研究テーマだ。天才・最澄の人生は、どこまでも彼の才幹を愛した師・行表のひたむきな向学指向に貫かれている。行表が最澄の官途のために認めた書状は、位階による署名「傳燈法師」を後世に伝えているが、まさに位の名そのままに「伝えること、燈すこと」に人生を捧げた人であった。若き天才もまた、よく師の志を後世に伝えたと言うべきであろう。&lt;br /&gt;　最澄は延暦七年（七八八）天台の教えを広める拠点として一宗の創立を決心し、比叡山寺を建立する。六年を費やし、山中にあった香木を手ずから刻み込んで本尊とした。一乗止観院と号したが、のちに嵯峨天皇により延暦寺の名を賜るに到る。&lt;br /&gt;（続く）&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/2427495263565810554-2741694062697118387?l=kinnynews.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='replies' type='application/atom+xml' href='http://kinnynews.blogspot.com/feeds/2741694062697118387/comments/default' title='コメントの投稿'/><link rel='replies' type='text/html' href='http://kinnynews.blogspot.com/2011/09/blog-post_22.html#comment-form' title='0 件のコメント'/><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/2427495263565810554/posts/default/2741694062697118387'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/2427495263565810554/posts/default/2741694062697118387'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://kinnynews.blogspot.com/2011/09/blog-post_22.html' title='最澄のこころ（２）'/><author><name>kinny Halentino</name><uri>http://www.blogger.com/profile/14683346301918691511</uri><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='32' height='25' src='http://1.bp.blogspot.com/-Am7xEkC0nk0/TnrQ5N4sUII/AAAAAAAAAAc/F917vsp1gAY/s220/IMGP0018_ss.JPG'/></author><thr:total>0</thr:total></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-2427495263565810554.post-6714784836126712099</id><published>2011-09-22T14:30:00.002+09:00</published><updated>2011-09-22T15:13:47.267+09:00</updated><category scheme='http://www.blogger.com/atom/ns#' term='日本の偉人'/><title type='text'>最澄のこころ（１）</title><content type='html'>◆一見、今日のわたしたちと無関係な最澄について&lt;br /&gt;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp; &lt;br /&gt;　比叡山といえば、わたしたちは何を思い浮かべるだろうか？&lt;br /&gt;「朕の意のままにならぬもの、鴨の流れ、さいの目、叡山の山法師」&lt;br /&gt;　歴史の教科書を賑わすのは後白河法皇の嘆きであり、貴族の怨嗟であり、山法師の跋扈であり、政治への介入であり、僧兵の跳梁であり、織田信長の焼き討ちである。&lt;br /&gt;　が、不純、殺伐、などと安易に斬って捨てずに、立ち止まってほしい。&lt;br /&gt;「わたしたちは、なぜ、そうしたことを克明に振り返り得るのか？」&lt;br /&gt;　かって坂上田村麻呂という、東国の征討で名を上げた武人がいた。少壮の日の彼が、病に苦しむ妻の加療にと、鹿の鮮血を求めて音羽山をさまよった話は有名だが、さて、後に征夷大将軍となるこの男の登場の以前と以後で、どれほど日本史の色彩に違いがあるか、考えてみたことがあるだろうか？&lt;br /&gt;　例出するまでもない、ほとんど白黒写真とカラーテレビほどの違いがあると言っていいだろう。最澄が日本のために果たした功績は、千数百年を経た今日、もはや言葉に尽くせないほどの重量ともなっているのだ。極東のはずれに浮かぶ島国のわたしたちが、他の文明世界に対し、何ら恥じ入る必要を感じずに済むのは、故ないことではない。艶やかな平安文化や鎌倉のリアリズムを、単なる退廃や殺伐ではなく、雅や矜恃へと華麗に導いたのは、平安初頭の、革命的とさえいえる教養の充実と文明の普及拡大だった。そして、その重要な基礎部分を担ったのが、叡山と、叡山より派生した各宗による教学体系なのである。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　日本で初めて、本格的なアカデミーを構想し、機能させた「知の巨人」こそ伝教大師・最澄その人だ。日本人の価値観や美意識に今なお影響を与え続けている「世界最高水準の洗練」ともいえる室町、安土桃山、江戸の文化も、その根っこを丹念に洗い出し、確かめれば、そのいちいちが仏門に行き着く。最澄がもたらしたのは、単なる「最新」ではない。その本質は絵画や財宝ではなく、機能であった。正しく大学であり、指導者である最澄自身が、権威や形式より、鎮護国家と向学心の涵養を第一と考え、実践した。入寂三年前のこと、最澄は叡山に、有名な「山家学生式」を遺している。&lt;br /&gt;「国の宝とは何物ぞ、宝とは道心なり。道心ある人を名づけて国宝と為す」（国の宝とは何であるか。道を究め、深めんとする心こそ宝である。そうした心を有する人材こそ、国宝というべきものである）&lt;br /&gt;　万葉の鄙の悲哀も、のちにそれを慈しみ、愛でる人々の、まさに「一隅を照らす」こころの群れなくしては、為すところなく歴史に埋もれたであろう。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;◆最澄は、雑密と魑魅魍魎が跋扈する南都の世に生を受けた&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　飛鳥の大路、とある巨刹の界隈を、がごぜ、という妖怪が徘徊した。巨刹の名を元興寺という。ゆえに「がごぜ」と呼んだというが、真相は定かではない。ともあれ、毎晩のように人死にが出るというので、少しく名のある怪力の童子が妖怪を待ち伏せ、毛を掴んで引き倒し、これを剥ぎ去った。妖怪は果たして寺に因縁ある無頼の下男であったと言うが、見事これを退けた力自慢の童子こそ後の名僧・道場法師であり、その孫娘は少なくとも聖武天皇の御代まで尾張国愛知郡にて一族とともに暮らしあったとの伝、今昔物語集に記載がある。&lt;br /&gt;　妖怪が暴れたことは、主題ではない。百年の時と、度重なる遷都を経てなお、口さがない都人の井戸端に、この妖怪を徘徊させてやまない聖武・孝謙（称徳）時代の政治腐敗こそ、主題である。つまり、こうした時代の空気、腐臭に頭から飛び込む恰好で、後の伝教大師・最澄は生まれ出た。神護景雲元年、七六七年のことである。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　幼名を広野（ひろの）という。父である三津首百枝（みつのおびと・ももえ）の下に生まれたが、その不思議な苗字からも推察されるように、渡来人の家系である。といっても、先祖が日本に帰化して久しく、この百年ほどの渡来人の数たるや大変なもので、広野の頃には、周辺でもすっかりありふれた一族になっていた。生誕地である生源寺は、最澄となった広野が後に自身の手で建立した寺であり、現在、京阪電鉄の坂本駅を降りてすぐの住宅地の真ん中にある。かっての国名では近江国滋賀郡古市郷、敷地の西端に面して叡山へと続く斜面があり、後の「入山」にしても、思いの軽重はともかく、地理的には、自宅裏の崖をよじ登るような感覚があったかも知れない。ともあれ幼少の頃より、あわうみに遊び、叡山のふもとを駆け下る日々を過ごしつつ育ったのであろう。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;◆十四才で得度（国家公務員）一国の国分寺・定員二十名の狭き門を突破&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　宝亀九年（七七八）、広野は十二才で出家し、近江国分寺の大国師であった行表に師事する。仏門にあっては師の影響こそこの上なく大きい。が、とくに初学期における師の向学姿勢や傾向は、弟子の生涯を通じ、その学業への取り組みを、精神的に支配することがある。ごく温和で控えめな、しかし国中の学識と知見を満身に湛える師は、十二才の小僧に過ぎなかった当時の広野にとり、ごく身近に山懐を抱かせながら、なお峻厳としてそびえ立つ、まさしく叡峰のような雲上人であったろう。後の最澄においてみられる、竹を割ったように明瞭一途でひたむきな性質は、この傳燈法師位を戴く大国師・行表に負うところが大きかったに違いない。&lt;br /&gt;　行表は唯識と禅で知られた人である。唯識は弥勒菩薩（マイトレーヤ／maitreya）を祖とし、「空」の思想を基礎に理論を展開する。人が見聞きし、嗅ぎ、味わい、触れ、幾重にも意識され、個々の想定の上で現実と信じてやまない世界は、その実、客観的存在ではけしてありえず、あくまで個々の内における意識の相互作用の総体なのであって、時に臨んでめまぐるしく明滅をくり返す無常なる主観世界に過ぎない。あらゆる存在（色）が、真相においては（即）、実体のないものなのである（是空）、と観じきる世界においては、みずからに対する分析と働きかけが人生の主題になる。広野は、ときに仰ぎ見る近江一国の知見をふんだんに呼吸しながら、乾土が驟雨を吸い込むようにして仏の教えを吸収した。&lt;br /&gt;　と、わずか二年後の宝亀十一年（七七八）十一月十二日、国分寺に死闕があり、欠補する形で広野が師の行表より得度を受け、最澄を名乗る。往時の得度僧は、今日における医者のように官許であり、税さえ免除されることを思えば、その特権は医者以上であった。初学わずか二年の十四才、正八位下の父にあって、およそ考えられない推挙であり、行表の眼力ということもあろうが、常からよほど天才の相を示していたに違いない。後の最澄の働きぶりから当然のことのように思われるかも知れないが、それこそ後世の浅はかであろう、世の常とはそうではない。&lt;br /&gt;　行表の師であった中国からの渡来僧・道セン※は禅の第一人者で、他に華厳教学と天台にも精通していた。後に最澄は円・密・禅・戒の四種相承を旨とする壮大かつ独自の天台教学を展開するに到るが、この大元は、入唐求法のはるか以前、道セン※の教えを受けた行表の影響を多とすべきであること疑いない。ひるがえって、この密度濃い教学精神の伝承は、いかに行表が最澄の才幹を高く評価し、みずからを注ぎ込んだかということの証左であるともいえよう。&lt;br /&gt;※（「セン」は依存文字）&lt;br /&gt;&amp;nbsp;（続く）&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' 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